な授業を捨てておいて、旧藩主の奥御殿に起ったという怪談めいた話などをして、学生を笑わせている人だった。そうした人に対しても、園は異名を用いて噂《うわさ》することなどは絶えてしなかった。
「ほんとに困る。しかしどうせ何んでも自分でやらないじゃならない学校だからかまわないといえばかまわないことだが……今日は少しはいいの」
澄んで底力のある声が、清逸の眼にだんだん明瞭な姿を取ってゆく園の方から静かに響いた。健康を尋《たず》ねられると清逸はいつでも不思議にいらだった。それに答える代りに、何んとなくいい渋っていた肝心の用事を切りだすほかはなくなった。清逸は首をもたげ加減にして、机の方に眼をやった。そしてその引き出しの中にある手紙を出してくれと頼んでしまった。
園はすぐ机の方に手を延ばして、引き出しを開けにかかった。その時清逸は、自分の瞳が光って、園の方にある鋭い注意を投げているのを気づかずにはいられなかった。園が手紙を取りだした時、星野とだけ書いてある封筒の裏が上になっていたので、名宛人が誰であるかはもとより判りようはずがないのに、園の顔にはふとある混乱が浮んだようにも思え、少しもそんなことがないようにも清逸には思えた。清逸はまたかかることに注意する自分を腑甲斐《ふがい》なく思った。そして思わずいらいらした。
「僕はたぶん明日|親父《おやじ》に会いに千歳《ちとせ》まで帰ってくる。都合ではむこうの滞在が少し長びくかもしれない。できるなら僕は秋のうちに……冬にならないうちに東京に出たいと思っているんだがね。そんなことは貧乏な親父に相談してみたところで埒《らち》は明くまいけれども、順序だから話だけはしてみるつもりなのだ。……でその手紙をおぬいさんにとどけてくれないか。僕は熱があるようだから行かれないと思うから……おぬいさんが聞いたら千歳の番地を知らせてやってくれたまえ、……聞かなかったらこっちからいうには及ばないぜ……それからね、手紙にも書いておいたが、僕の留守の間、おぬいさんの英語を君に見てもらうわけにはいかないかね」
いらいらしさにまかせて、清逸はこれだけのことを畳《たた》みかけるようにいって退《の》けた。すべてを清逸は今まで園にさえ打ち明けないでいたのだった。清逸にとってはこれだけの言葉の中に自分を苦しめたり鞭《むちう》ったりする多くのものが潜んでいるのだ。
清逸は何んということなく園から眼を放して仰向けに天井を見た。白い安西洋紙で張りつめた天井には鼠の尿ででもあるのか、雲形の汚染《しみ》がところどころにできている。象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師《こぼし》の喰いついた形、醜《みにく》い女の顔の形……見なれきったそれらの奇怪な形を清逸は順々に眺めはじめた。
さすがの園もいろいろな意味で少し驚いたらしかった。最後の瞬間までどんなことでも胸一つに納《おさ》めておいて、切りだしたら最後貫徹しないではおかない清逸の平生を知らない園ではないはずだ。だがあの健康で明日突然千歳に帰るということも、おぬいさんに英語を教えろということも、すべてがあまりに突然に思えたらしかった。清逸が、象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師の喰いついた形から醜い女の顔の形へ視線を移したころ、
「では君もいよいよ東京に行くの」
と園が言った。そしておぬいさんの手紙を素直に洋服の内|衣嚢《かくし》にしまいこんだ。
園はおぬいさんに牽《ひ》きつけられている、おぬいさんについては一言もいわないではないか。……清逸はすぐそう思った。それともおぬいさんにはまったく無頓着《むとんちゃく》なのか。とにかくその人の名を園の口から聞かなかったのは……それはやはり物足らなかった。園の感情がいくらかでも動くのを清逸は感じたかったのだ。
「西山君も行くようなことをいっていたが……」
園は間をおいてむりにつけ足すようにこれだけのことをいった。
西山がそんなたくらみをしているとは清逸の知らないことだった。清逸は心の奥底ではっと思った。自分の思い立ったことを西山づれに魁《さきが》けされるのは、清逸の気性として出抜かれたというかすかな不愉快を感じさせられた。
「もっとも西山君のことだから、言いたい放題をいっているかもしれないが……」
清逸の心の裏をかくとでもいうような言葉がしばらくしてからまた園の唇を漏《も》れた。清逸はかすかに苦しい顔をせずにはいられなかった。
二時間目の授業が始まるからといって園が座を立ったあと、清逸は溜息《ためいき》をしたいような衝動を感じた。それが悪るかった。自然に溜息が出たあとに味われるあの特殊な淋しいくつろぎは感ずる
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