奇妙な物売だけはことに柿江の注意を牽《ひ》いた。
 鉢巻の取れた子供の羅紗帽《らしゃぼう》を長く延びたざんぎり頭に乗せて、厚衣《あつし》の恰好をした古ぼけたカキ色の外套を着て、兵隊脚絆《へいたいきゃはん》をはいていた。二十四五とみえる男で支那人のような冷静で悧巧な顔つきをしていた。それが手ごろの風呂敷包を二枚の板の間に挾んで、棒を通して挾み箱のように肩にかついでいた。そして右の手には鼠色になった白木綿《しろもめん》の小旗を持っているのだが、その小旗には「日本服を改良しましょう。すぐしましょう」と少しも気取らない、しかもかなり上品な書体で黒く書いてあった。
 その小旗が風に靡《なび》いて拡がれば拡がったまま、風がなくなって垂れれば垂れたままで、少しの頓着もなく売声はもとより立てずに悠々《ゆうゆう》と歩いていくのだった。
 柿江も二十五だった。彼は何んとなくその物売に話しかけたくなった。そしてつかつかとその方に寄っていこうとした。その時彼は先夜西山と闘《たたか》わした議論のことを思った。
「貴様のように自分にも訳の判らない高尚ぶったことをいいながら実行力の伴わないのを軽薄というんだ」と西山の言った言葉がどうも耳の底に残っていて離れないでいた。それとこれとは何んの関係もないようだが、柿江にはきゅうにその物売に話しかけるのに気がひけだした。それゆえ彼は物売をやり過ごして創成川を渡ってしまった。
 次の瞬間に、柿江は今夜の夜学校の修身の時間にはあの物売の話をして聞かせようと考えていた。実行家とはああいう人間のことをいうのだと教えてみよう。そしてもしうまく書けたら新聞の寄書としても十分役立つに違いないとも思いめぐらしていた。左手を深々と内懐から帯の下にさし入れて、右手の爪をぶつりぶつりと囓《か》み切りながら。
     *    *    *
 柿江は自分でまた始まったなと思った。けれども何んといっても、その興奮が来ると、むりに抑《おさ》えつける気持にはなれなかった。自分の眼には、二十四五人の高等科の男女の生徒が、柿江の興奮に誘われてめいめいの度合いに興奮しながら、眼を輝かして柿江の能弁に聞き入っていた。それに誘われて柿江は自分がさらに興奮してゆくのを感じた。
「いいか、その旗には『日本服を改良しましょう。すぐしましょう』と書いてあるんだ。とうとうその男は先生が一生懸命に介抱し
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