日はない。……だがこんなことは医者にさえいう必要はないことだよ。こんな嬉しいことはめいめいの心の中に大事にしまっておくべきことだからな」
苦しい呼吸の間から父はようやくこれだけのことをいって横になった。
この出来事については母もおぬいも父の言葉どおり誰にもいわないでいる。いわないでいるうちにおぬいにとっては、それがとても口には出せないほど尊いものになっていた。
おぬいは老境に来たのを思わせるような母の後姿を見つめながら、これを思いだすと、涙がまたもや眼頭から熱く流れだしてきた。啜泣《すすりな》きになろうとするのをじっと堪えた。……不断は柔和で打ち沈んだ父だったけれども何んという男らしい人だったろう。あの強い烈しい底力、それはもうこの家には、どの隅にも塵ほども残っていない。……淋しい、父が欲しい。父がもう一度欲しい。父のあの骨ばった手をもう一度自分の肩に感じてみたい。
力の不足、自分一人ではどうしようもない力の不足――倚《よ》りすがることのできるものに何もかも打ち任《ま》かして倚《よ》りすがりたい憧《あこが》れ、――そしてどこにもそんなもののない喰い入るような物足らなさ。……気を鎮《しず》めて眠ろうとすればするほど、悲しみはあとからあとからと湧き返って、涙のために痛みながらも眠が冴《さ》えるばかりだった。
おぬいはとうとうそっと起き上った。そして箪笥《たんす》の上に飾ってある父の写真を取って床に帰った。父がまだ達者だったころのもので、細面の清々《すがすが》しい顔がやや横向きになって遠い所をじっと見詰めていた。おぬいはそれを幾度も幾度も自分の頬に押しあてた。冷たいガラスの面が快い感触をほてった皮膚に伝えた。おぬいはその感触に甘やかされて、今度は写真を両手で胸のところに抱きしめた。
涙がまた新たに流れはじめた。
二度と悪夢に襲われないために、このままで夜の明けるのを待とうとおぬいは決心した。
夜は深いのだろう。母の寝息は少しも乱れずに静かに聞こえつづけていた。おぬいはようこそ母を起さなかったと思った。
* * *
夜学校を教えるために、夜食をすますとすぐ白官舎を出た柿江は、創成川っぷちで奇妙な物売に出遇《であ》った。
その町筋は車力や出面《でめん》(労働者の地方名)や雑穀商などが、ことに夕刻は忙がしく行き来している所なのだが、その
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