「そうだ、君にだ」
そう園のいうのを聞くと、ガンベは指の短かい、そして恐ろしく掌の厚ぼったい両手を発矢《はっし》と打ち合せて、胡坐《あぐら》のまま躍り上がりながら顔をめちゃくちゃにした。
「星野って奴は西山、貴様づれよりやはり偉いぞ」
西山は日ごろの口軽に似ず返答に困った。西山が星野を推賞した、その矛《ほこ》を逆まにしてガンベは切りこんできた。星野が衆評などをまったく眼中におかないで、いきなり物の中心を見徹していくその心の腕の冴《さ》えかたにたじろいたのだ。しかたなしに彼は方向転換をした。そして、
「園君、君が最初に頼まれたんだろう」
と搦手《からめて》からガンベの陣容を崩そうとした。
「いいえ別に、僕は手紙をおぬいさんにとどけるように頼まれただけだった」
それが園の落ち着いた答えだった。
「俺が札幌にいりゃ、この幕は貴様なんぞに出しゃばらしてはおかなかったんだが」
そういって西山は取ってつけたように傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に高笑いするよりのがれ道がなかった。
柿江は三人の顔にかわるがわる眼をやりながら爪をかみ続けていた。あのままで行くと狂癲《きちがい》にでもなるんではないかとふと西山は思った。とにかく夜は更けていった。何かそこには気のぬけたようなものがあった。六年近く兄弟以上の親しさで暮してきたこの男たちとも別れねばならぬ四辻に立つようになった……その淡い無常を感じて、机からぬっくと立ち上りながら西山は高笑いを収めた。そして大きな欠伸《あくび》をした。
* * *
その時清逸は茶の間に母といっしょにいたのだが、おせいの綿入を縫っていた母は針を置いて迎えに立っていった。清逸は膝の上に新井白石の「折焚く柴の記」を載せて読んでいた。年老いた父が今|麦稈《むぎわら》帽子を釘《くぎ》にひっかけている。十月になっても被りつづけている麦稈帽子、それは狐が化《ば》けたような色をしている。そしてそれは父が自分の家族のためにどれほど身をつめているかを人に見せびらかすシムボルなのだ。清逸はそれをまざまざと感ずることができた。そればかりではない。今日の父は用向きがまったく失敗に終ったこと、父が侮蔑《ぶべつ》だと思いこみそうなことを先方からいわれて胸を悪くして帰ってきたこと、それをも手に取るように感ずることができた。清逸にはその結果は前から分っている
前へ
次へ
全128ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング