ことだった。
わざとらしい咳払《せきばら》いを先立てて襖《ふすま》を開き、畳が腐りはしないかと思われるほど常住坐《じょうじゅうすわ》りっきりなその座になおると、顔じゅうをやたら無性に両手で擦り廻わして、「いやどうも」といった。それは父が何か軽い気分になった時いつでもいう言葉だ。しかしそれを今日はてれ隠しにいっている。
母が立ったついでにラムプを提げてはいってきた。そしてそれを部屋の真中にぶらさがっている不器用な針金の自在鍵《じざいかぎ》にかけながら、
「降られはしなかったけえ」と尋ねた。
「なに」
といったぎりでまた顔を撫でた。と、思いだしたように探りを入れるような大きな眼を母の方にやりながら、
「時雨《しぐ》れた時分にはちょうど先方にいたもんだから何んともなかった」
とつけ加えた。父は一度も清逸の方を見ようとはしない。
札幌のような静かな処に比べてさえ、七里|隔《へだ》たったこの山中は滅入《めい》るほど淋しいものだった。ことに日の暮には。千歳川の川音だけが淙々《そうそう》と家のすぐ後ろに聞こえていた。清逸は煮えきらない部屋の空気を身に感じながら、その川音に耳をひかれた。こっちの方から話の糸口を引きだして、父の失敗が気にかけるほどのものではないのを納得させたものだろうか、それとも話の出ないのをいいことにしてうやむやにすましてしまったものだろうかと考えた。久しぶりで戸外に出た父は、むだ話の材料をしこたま持って帰っているに違いない。思出話ばかりを繰り返している反動に、それを一つ一つ持ちだされるのは清逸にはちょっと我慢のできないことらしかった。さらぬだにいらいらしがちな気分と、消耗熱《しょうもうねつ》のために我慢が薄くなっているのとで、清逸はそれを恐れた。清逸はつまらぬこととは思いながら白石の父の賢明さを思い浮べた。父子で身にしみじみと話しこんで顔にとまった蚊が血に飽きすぎて、ぽたり[#「ぽたり」に傍点]と膝の上に落ちるまで払いもせずにいたという、そういう父子の間柄であったのを思い浮べた。その挿話は前から清逸の心を強く牽《ひ》いていたものだった。
父は煙草をのんではしきりに吐月峰《とげっぽう》をたたいた。母も黙ったまま針を取り上げている。
店の方に物を買いに来た人があった。母はすぐ立っていった。
「どうもやはり北海道米はなあ増《ふ》えが悪るうて。したら内地米
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