も、一度だけでも……おせいは切羽《せっぱ》つまった気持の中で、悲しい嬉しい瞬間を心に描いた。それがせめてもの腹いせだった。……そして死んでしまえばそれでいいんじゃないか……
「お父さんはたってと勧めるんじゃない……が、お前はどうしても気が向かないというのだな……」
 おせいはびくりとして夢のようなところから没義道《もぎどう》にひきもどされた。彼女はいつの間にかハンケチを眼にあてていた。
「まあお父さんの胸の中もひととおり聞いてくれ。俺も五十二になる。昔なら殿様に隠居を願いでて楽にくつろぐ時分だが、時世とはいい条《じょう》……また、清逸の奴がどういうつもりなのか、あの年になっていて、見さかいのなさ加減はない。このごろもお前、家にいて、毎日の家の様子は見ているくせに、箒《ほうき》一つ取るでもなく、家いっぱいにひろがって横着をきめている始末だ。学問ができるのなんのって人がちやほやするのを真《ま》に受けてしまってからに、有頂天《うちょうてん》になっている。あんな病気を背負いこんで薬代だけでもなみたいていでないのに、東京へ出かけようといってさらに聞かんのだ。俺もこうやってはいるがいざとなればそのくらいの工面はつくから、苦しいながらあちこち世話をやいてやってみると、そんなところから金を出してもらうのは嫌だとか何んとか、つべこべいいくさる。……」
 こういう不平をきっかけに父は母が少しも甲斐性のないことや、純次がますます物わかりが悪くなって、親を睨《にら》めかえすしぶとさばかりが募るということや、孵化場《ふかじょう》の所長が代ると経費が節減されて、店の方の実入りが思わしくないということや、今度の所長の人格が下司のようだということや、あらん限りの憤懣《ふんまん》を一時にぶちまけ始めた。それをじっとして聞いているおせいはさすがに父が哀れになった。五十二というのに、その人は六十以上に老い耄《ぼ》けていた。これほどの貧乏に陥るのももとはといえば何んといっても父の不精から起ったことだと、苦しいにつけ、辛らいにつけ、おせいは父を恨めしく思う気持になるのだったが、眼前世の中が力にあまって、当惑しているような父の姿を見ると、母も母だ、兄も兄だという心が起った。
「愚痴《ぐち》には違いない……愚痴には違いないがお前にでも聞いてもらわにゃお父さんは愚痴をこぼすせきもないような身柄になったよ、いやどう
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