おもった。そして渡瀬さんに対する自分の考えをいおうとしているうちに、母は支度をすまして茶の間にはいってきた。いつものとおり地味すぎるような被布を着て、こげ茶のショールと診察用の器具を包んだ小さい風呂敷包とを、折り曲げた左の肘《ひじ》のところに上抱きにしていた。いっさいの香料を用いないで、綺麗さっぱりとした身だしなみは母にふさわしいものだった。母はストーヴの火具合を見てから、親しみ深くおぬいのそばに来て坐った。そして遊んでいる右の手でおぬいの羽織の衣紋がぬけかけているのを引き上げながら、
「どう思うの」
 ともう一度静かに尋ねた。
「快活なおもしろい方だと思いますわ」
 とおぬいは平気で思ったとおりを答えた。
「あなたにあっては誰でもいい方になってしまうのね」
 ほほえみながらそういって母はちょっと言葉を途切らしたが、
「私もほんとはあなたの思ってるとおりに思うのだけれども、世間ではそうはいっていないらしい。中にも教会の方などには聞き苦しいとおもうほどひどい評判をなさるのもあって、どうして星野さんが、あんな人を推薦《すいせん》なさったんでしょうと、星野さんまで疑うらしい口ぶりでした。私としてもあなたのようにあの方をいい方だとばかり極めるわけにはいかないと思うところもあるのだけれども、星野さんがおっしゃってくださるのだから私は信じていていいと思います。……けれども噂というものもあながちばかにはできないから、あなたもその辺は考えておつきあいなさいよ。遊廓なんぞにも平気でいらっしゃるという人もあるんだから……」
 おぬいは遊廓という言葉を母の口から聞くと、身がすくみそうに恥じらわしくなって、顔の火照《ほて》るのを覚えた。母はそれを見て少し違った意味に取ったらしい。
「そうね、私は星野さんや渡瀬さんを信ずるよりあなたを信じましょうね。渡瀬さんに用心するより、あなたが真直な心をさえ持っていれば少しもこわいことはありませんよ。どんなことがあっても人様を疑うのはよくないものね。正しい心がけで、そのほかは神様におまかせしておけば安心です。……ではこれから出かけてきますからね、渡瀬さんがいらしったらよろしく」
 こういい残して母はかいがいしく、雪のちらちら降る中を病家へと出かけていった。
 母を送りだして茶の間に帰ったおぬいは、ストーヴに薪《まき》を入れ添えて、火口のところにこぼれ落ち
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