た灰を掃除しながら時計を見るともう三時になっていた。部屋の中は綺麗に片づいていて、客を迎えるのに少しの手落ちもなかった。自分の身なりをも調べてみて、ふたたび机の前に坐ろうとした時、ふと母のいい残した言葉が気になった。渡瀬さんの来る時には今までいつでもおりよく母がいたのに今日は留守になるので、それであれだけのことをいいおいたのかと思えた。そう思ってみると、その言葉の一つ一つにはかりそめに聞き流してはいられないものがあるようだった。そういえば渡瀬さんという人は、星野さんや園さん、そのほか農学校にいる書生さんたちとは少し違ったところがある。あの人の前に出るとはじめから自由な気持で何んでもいえそうだけれども。そして困ったことでもあった時、相談をしかけたら、すぐてきぱき始末をつけてくれそうだけれども、その先の先がどう変ってゆくのか、渡瀬さん自身でさえ無頓着《むとんちゃく》でいるようにも見える。他人のことはすぐ見ぬいてしまって、しかもけっして急所を突くようなことはしない代りに、自分のことになると自由すぎるほどのんきなようにも見える。そうかと思うと、どんな些細《ささい》なことでも自分を中心にしなければ取り合わないようなところもある。けれどもあの人は真から悪い人ではない、そして真から悪いという人が世の中には本当にあるものだろうか。……おぬいは読本に眼をやりながら、その一語をも読むことなしに、こんなことを考えた。渡瀬はがさつ[#「がさつ」に傍点]で下品でいけないと家に来られる書生さんたちはよくいうけれども……私にはついぞそうしたようなことは見当らない。……私はいったい、他の人たちとは生れつきがちがうのだろうか。少しぼんやりしすぎて生れてきたのではないだろうか。あまりに人々と自分との考え方はかけちがっている。……本当にかけちがっている。まだ何んにも知らないからなのだろう。……おぬいは非常に恥かしいところに突きあたったような気がした。そして知らず識らず体じゅうが熱くなった。
そんなことを思っていると、ふとおぬいは心の中に不思議な警戒を感じた。彼女は緋鹿《ひか》の子の帯揚《おびあげ》が胸のところにこぼれているのを見つけだすと、慌《あわ》てたように帯の間にたくしこんで、胸をかたく合せた。藤紫の半襟が、なるべく隠れるように襟元をつめた。束髪にはリボン一つかけていないのを知って、やや安心しなが
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