、清逸の方に近づくが早いか、拳を固めて清逸の頭から顔にかけてところきらわず続けさまになぐりつけた。それは思わず清逸をたじろがすほどの意外な素早さだった。
「出ていけ、これは俺の部屋だい。出ていかねばたたき殺すぞ」
やがて牛のうめき声のような口惜し泣きが、立ったままの純次の口からおめきだされた。
清逸は体じゅうがしびれるのを覚えて、俯向《うつむ》いたまま黙っているほかはなかった。
「出ていかねえか」
純次は泣きじゃくりの中から、こう叫んでいらだちきったように激しく地だんだを踏んだ。次の瞬間には何をしだすか分らないような狂暴さが清逸に迫ってきた。
清逸はしん[#「しん」に傍点]とした心の中で、孵化場《ふかじょう》あたりから来るらしい一番鶏の啼き声をかすかに聞いたように思った。部屋の中はしかし真暗闇だった。
純次は何か手ごろの得物をさぐっているのらしくごそごそと臥床《ふしど》のまわりを動きはじめていた。だんだん激しくなり増さるような泣きじゃくりの声だけがもの凄く部屋じゅうに響いていた。
「待て純次、俺は母屋に行くから待て」
清逸は不思議な恐怖に襲われ、不意の襲撃に対して用心をしながら座を立って二三歩入口の方に動かねばならなかった。しかしその瞬間に、しかけていた仕事のことを考えると、慌《あわ》てて立った所から上体を机の方に延ばして、手に触れるにまかせて原稿紙をかき集めた。そしてそれを大事に小脇にかかえて、板壁によりそいながら入口へとさぐり寄った。
部屋の中では純次が狂暴に泣きわめいていた。清逸は誰のともしれない下駄を突っかけて、身を切るような明け方近い空気の中に立った。
その時清逸はまたある一種の笑いの衝動を感じた。しかし彼の顔は笑ってはいなかった。
* * *
隣りの間で往診の支度をしていた母が、
「ぬいさん」
と言葉をかけた。おぬいはユニオンの第四読本からすぐ眼を放して、母のいる方に少し顔を向け気味にして、
「はい」
と答えたが、母はしばらく言葉をつがなかった。
「今日は渡瀬さんがいらっしゃる日ね」
やがてそういった。おぬいは母が何か胸に持ちながらものをいっているのをすぐ察することができた。
「あなたはあの方をどう思ってだえ」
おぬいがそうだと答えると、母はまたややしばらくしてからいった。
おぬいは変なことを尋ねられると
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