べると、白石の思想は一見平凡にも単調にも思えるけれども、自分の面目《めんもく》と生活とから生れでていないものは一つもなく、しかもその範囲《はんい》においては、すべての人がかりそめに考えるような平凡な思想家ではけっしてなかったということを証明したかったのだ。徂徠が野にいたのも、白石が官儒として立ったのも、たんなる表面観察では誤りに陥《おちい》りやすいことを論定したかった。この事業は清逸にとってはたんなる遊戯ではなかった。彼はこの論文において彼自身を主張しようとするのだ。これは西山、および西山一派の青年に対する挑戦のようなものだった。
 白石文集、ことに「折焚《おりた》く柴《しば》の記《き》」からの綿密な書きぬきを対照しながら、清逸はほとんど寒さも忘れはてて筆を走らせた。彼はあらゆる熱情を胸の奥深く葬ってしまって、氷のように冷かな正確な論理によって、自分の主張を事実によって裏書きしようとした。ややもすれば筆の先に迸《ほとばし》りでようとする感激を、しいて呑みくだすように押えつけた。彼のペンは容易にはかどらなかった。
 アイヌと、熊と、樺戸監獄の脱獄囚との隠れ家だとされているこの千歳の山の中から、一個の榴弾《りゅうだん》を中央の学界に送るのだ。そしてそれは同時に清逸自身の存在を明瞭にし、それが縁になって、東京に遊学すべき手蔓《てづる》を見出されないとも限らない。清逸は少し疲れてきた頭を休めて、手を火鉢に暖ためながらこう思った。そして何事も知らぬげに眠っている純次の寝顔を、つくづくと見守った。それとともに小樽にいる妹のことを考えた。三人のきょうだいの間にはさまったおびただしい距離……人生の多様を今更ながら恐ろしく思いやってみねばならぬ距離……。けれども彼はすぐその心持を女々《めめ》しいものとして鞭《むちう》った。とにかく彼は彼の道を何物にも妨げられることなく突き進まねばならない。小さな顧慮や思いやりが結局何になる。木の葉がたった一つ重い空気の中を群から離れて漂っていく。そうだ自然のように、あの大自然のように。清逸は冷然として弟の顔から眼を原稿紙の方に振り向けた。そこには余白が彼の頭の支配を待つもののように横たわっていた。彼はいずまいを正して、掩《おお》いかぶさるようにその上にのしかかった。そして彼は書いて書いて書き続けた。
 ふとラムプの光が薄暗くなった。見ると、小さな油壷
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