た。
「お前は偉くなろうとそんなことばかり思っているから肺病に取りつかれるんだ。田舎にいろよ、じきなおるに」
「そうだなあ、俺もこのごろは時々そう思う。おせいにも可哀そうだしな」
「そんだとも、皆んな可哀そうだな。姉さん泣いてべえさ」
 清逸は不思議にも黙って考えこみたいような気分になった。そしてすべての人から軽蔑されているだらし[#「だらし」に傍点]ない純次の姿が、何となくなつかしいものに眺めやられた。その上彼の偶然な言葉には一つ一つ逆説的な誠があると思った。純次はどことなく締りのない風をして、無性に長い足をよじれるように運ばせながら、両手を外套の衣嚢《かくし》に突っこんだまま、おぼつかなく清逸の眼の前を歩いていった。人生というものが暗く清逸の眼に映った。
 その夜清逸は純次の部屋でおそくまで働いた。純次の机の上からつまらぬ雑誌類やくだらぬ玩具《がんぐ》じみたものを払いのけて、原稿用紙に向った。純次はそのすぐそばで前後も知らず寝入っていた。丹前を着て、その上に毛布を被ってもなお滲み透ってくるような寒さを冒して、清逸は「折焚く柴の記と新井白石」という論文をし上げようとした。物に熱中した時の徴候《ちょうこう》のように、不思議にも咳は出てこなかった。たまさかに木の葉の落ちる音と、遠い川音とのほかには、純次の鼾《いびき》がいぎたなく聞こえるばかりだった。清逸は時おりぺンを措《お》いて、手を火鉢にかざさねばならなかった。そのたびごとに弟の寝顔をふりかえってみた。仰向けに寝て(清逸には仰向けに寝るということがどうしてもできなかった。仰向けに寝る奴は鈍物だときめていた)放図なく口を開いて、鼻と口との奥にさわるものでもあるらしい、苦しそうな呼吸を大きくしていた。うす眼を開いているのだが、その瞳は上瞼に隠れそうにつり上っていた。helpless《ヘルプレス》 という感じが、そのしぶとそうな顔の奥に積み重なっているように見えた。
 清逸は手のあたたまる間、それを熟視して、また原稿紙に向った。清逸は白石は徳川時代における傑出《けっしゅつ》した哲学者であり、また人間であると思った。儒学《じゅがく》最盛期《さいせいき》の荻生徂徠《おぎゅうそらい》が濫《みだ》りに外来の思想を生嚼《なまかじ》りして、それを自己という人間にまで還元することなく、思いあがった態度で吹聴《ふいちょう》しているのに比
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