るそんな調子で。
「何しろ新井田は果報者だて」
渡瀬は往来に出て、寒い空気に触れるにつけて、暖かそうな奥さんの笑顔と肉体とを実感的に想像して、こう心の中で呟いた。けれども同時に、彼の懐ろの内も暖いのを彼は拒むことができなかった。あれだけをおっかあに渡して、あれだけを卯三公にやって、あれだけであの本を買って……と、残るぞ。二晩は遊べるな。……と、待てよ。きゅうにさっきまで考えつめていた計算のことが頭に浮んだ。ふむ……待てよ。渡瀬はたちまちすべてを忘れてしまった。数字の連なりが眼の前で躍りはじめた。渡瀬はしたり顔に一度首をかしげると、堅く腕を胸高に組合せて霜の花でもちらちら飛び交わしているかと冴えた寒空の下を、深く考えこみながら、南に向いてこつりこつりと歩いていった。
* * *
ガンベが「園にそうたびたびねだるのだけはやめろ、よ。あんなお坊ちゃんをいじめるのは貴様可哀そうじゃねえか。貴様ああんまりけち[#「けち」に傍点]だぞそれじゃ。俺なんざあこれで一度だって園にせびったことはないんだ。それに、まさかという時の用意に一人くらいとっときを作っておかないとうそだぞ貴様、はははは」といって笑ったことがあった。人見は隣りの園の部屋に行こうかと思って座を立ちかけた瞬間にこれを思いだした。しかし今の場合、園の所に行って話を持ちかけるほかに道がないのだ。
人見は痩せてひょろ長い体を机の前に立ちあがらせると、気持の悪い生欠伸《なまあくび》をした。彼は自体、園にこんなことをたびたび頼むのは、自分の見識からいっても、いかがなものだとは知っていたんだが、まず何んといっても一番無事に話のつきそうなのは、園のほかにはないのだからしかたがない。取りあってくれない奴だの、ばかにして話に乗らない奴だの、自分の金の不足になったことだけを知っていて、油を搾《しぼ》ろうとする奴だのにかかってはまったく面倒だ……それとももう一度婆やを泣かせようかとも思ったが、はした金にありつくのに、婆やの長たらしい泣き言を辛抱して聞いているのはやりきれない。やはり園が一番いい。すべての点において抵抗力が最も少ない。よかろう……人見は自分の部屋を出て、隣りの部屋のドアに手をかけた。また生欠伸が出た。
「園君いる?」
「ああ、はいりたまえ」
すぐこういう返事が小さく響いたが、机に向いたままでいって
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