もいわせたら、これはこの人が天から授かった徳相《とくそう》だとでもいうのだろう。
 研究室はまったく寒い部屋だった。渡瀬は計算に夢中でいる間は少しも気がつかなかったが、これでは新井田氏が不平をこぼしたのもむりがないと思った。火鉢一つでは、こんな天井の高い家ではもう凌《しの》げる時節ではない。それに宵《よい》もだいぶふけたらしかった。おまけに酒の酔いもさめぎわになっていた。
 玄関に来て帰りの挨拶をしかけると、新井田氏がきゅうに思いついたように、ちょっと待ってくれといってそそくさと奥にはいっていった。渡瀬はやむを得ずそこに突立って自分の下駄と新井田氏が脱ぎ捨てた履物《はきもの》とを較べなどしていた。その時頭のすぐ上で突然音がした。ちょっと驚いて見上げてみると玄関のつきあたりの少しすすけた白壁に、金縁の大きな丸時計がかかっていて、その金色の針がちょうど九時を指していた。玄関に時計をおくとは変な贅沢《ぜいたく》をしたもんだなあと思いながら、渡瀬はまじまじと大ぎょうな金色に輝くその懸時計を見守って値ぶみをしていた。
 間もなく新井田氏が奥さんにつきまとわれるようにして出てきた。渡瀬が夕食の馳走になった部屋のドアが開けぱなしにしてあるので、生暖かい空気とともに、今まで女がいたらしいなまめかしい匂いが、遠慮なく寒い玄関の空気の中に漂いでてきた。
「どうもお待たせしてすみませんでした」
 新井田氏の口調は、第三者の前でいつでも新井田氏が渡瀬に対してみせるあの尊大で同時に慇懃《いんぎん》な調子になっていた。
「今月の何んです、今月のお礼ですが、都合がいいから今夜お渡ししておきます。で、と、明日はおいでのない日でしたな。ところが明後日は私ちょっとはずせない用があるんですが、どうでしょう明日に繰り上げていただいちゃ、おさしさわりになりますか」
「ははん、活動写真は明日から廃業だな。先生ウ※[#小書き片仮名ヰ、273−上−21]スキーで夢中になっているな。子供だなあ」
 月末にはまだ三日もある今夜|報酬《ほうしゅう》をくれるというのもそれで読めた。ところで俺の方からいうと、報酬を貰った以上、今月はもう来ないというのは予定の行動だ。
「ええ差支えありません。来ますとも」
「どうぞいらしってちょうだいね」
 奥さんが……主人の加勢をするように主人には聞こえ、渡瀬を誘惑するように渡瀬には聞こえ
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