いるらしく、声がゆがんで聞こえてきた。勉強をしているなとおもいながら、人見はそっと戸を開いた。
きちんと整頓《せいとん》した広い部屋の一隅に小さな机があって、ホヤの綺麗に掃除された置ラムプの光の下で、園ははたして落ち着いて書見していた。戸外では雨も雪もまじえない風がもの凄く吹きすさんでいたが、この部屋はしんみりとなごいていた。人見は音のしないように戸をたてると、静かに机の方によっていった。やがて園ははじめて顔を挙げて人見を見かえった。光に背いて暗らくはあったけれどもその顔には格別不快らしい色は見えないようにみえた。そして「ひどい風になったねえ」といいながら、静かに座を立って、座蒲団の上に敷きそえていた、毛布の畳んだのを火鉢の向うにおきなおした。人見はちょっと遠慮するような恰好でそれに坐った、それは園の体温でちょうどよく暖たまっていた。
綺麗に掃除されたラムプの油壷は瑠璃色《るりいろ》のガラスで、その下には乳色のガラスの台がついていた。ありきたりの品物だけれども、大事に取り扱われているためか、その瑠璃色の部分が透明で、美しい光沢を持っていた。骨を入れて蝙蝠傘《こうもりがさ》のような形に作った白紙の笠、これとてもありきたりのものだが、何んとなく清々《すがすが》しくって、注意してみると、一カ所、針の先でいくつとなく孔《あな》を明けた所があった。園が何か深く考えこみながら、無意識にその辺にあった縫針でいたずらをしたものに違いない。あの子供のように澄んだ眼でじっとラムプを見つめながら、ぷつりぷつりと乾いた西洋紙に孔を明けている園の様子が見えるようだった。
「何を勉強しているの」
園に対してはどうもひとりでに人見は声を柔らげなければならなかった。
「僕には少し方面ちがいのものだけれども、星野君が家に帰る時、読んでみろっておいていったものだから」と答えながら園は書物を裏返して表紙を人見に見せた。濃い藍の表紙に、金文字でたんに“Mutual《ミューチュアル》 Aid《エイド》”とだけ書いてあった。
「倫理学の問題でも取りあつかったものかい」
「著者は Prince P. Kropotkin という人で……」
「何、クロポトキン……それじゃ君、それは露西亜《ロシア》の有名な無政府主義者だ」
人見は星野や西山たちが議論する座に加わって、この人の名はたびたび耳に入れたのだが、自分
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