ていました。むすめはお母さんの足もとの床《ゆか》の上にすわって、布切れの端《はし》を切りこまざいて遊んでいました。
「なぜパパは帰っていらっしゃらないの」
 とその小さい子がたずねます。
 これこそはそのわかいおかあさんにはいちばんつらい問いであるので、答えることができませんかった。おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。
 ミシンはすこし損じてはいますが、それでも縫い進みました。――人の心臓《しんぞう》であったら出血のために動かなくなってしまうほどたくさん針《はり》が布をさし通して、一縫いごとに糸をしめてゆきます――不思議な。
「ママ今日《きょう》私は村に行って太陽が見たい、ここは暗いんですもの」
 とその小さな子が申しました。
「昼過ぎになったら、太陽を拝みにつれて行ってあげますからね」
 そう言えばここは、この島の海岸の高いがけの間にあって暗い所でした。おまけに住宅は松《まつ》の木陰《こかげ》になっていて、海さえ見えぬほどふさがっていました。
「それからたくさんおもちゃを買ってちょうだいなママ」
「でもたくさん買うだけのお金がないんですもの」
 とおかあさんは言いながらひときわあわれにうなだれました。昔《むかし》は有り余った財産も今はなけなしになっているのです。
 でも子どもが情けなさそうな顔つきになると、おかあさんはその子をひざに抱《だ》き上《あ》げました。
「さあ私の頸《くび》をお抱き」
 子どもはそのとおりにしました。
「ママをキスしてちょうだい」
 しかして小鳥のように半分開いたこの子の口からキスを一つもらいました。しかしてヒヤシンスのように青いこの子の目で見やられると、母の美しい顔は、子どもと同じな心置きのない無邪気《むじゃき》さに返って、まるで太陽の下に置かれた幼児《ようじ》のように見えました。
「ここで私は天国の事などは歌うまい。しかしできるなら何かこの二人《ふたり》の役にたちたいものだ」
 と鳩は思いました。
 しかして鳩は、この奥さんがこれから用足しに行く「日の村」へと飛んで行きました。
 そのうちに午後になりましたから、このかわいい奥さんは腕《うで》に手かごをかけて、子どもの手を引いて出かける用意をしました。奥さんはまだ一度もその村に行った事はありませんが、島の向こう側で日の落ちる方にあるという
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