》のすみにある生漆《きうるし》を塗った桑の広蓋《ひろぶた》を引き寄せて、それに手携《てさ》げや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくその縁《ふち》から底にかけての円味《まるみ》を持った微妙な手ざわりを愛《め》で慈《いつく》しんだ。
場所がらとてそこここからこの界隈《かいわい》に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさらそれがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくり[#「ぽくり」に傍点]やあずま下駄《げた》の音が少し冴《さ》えて絶えずしていた。着飾《きかざ》った芸者たちがみがき上げた顔をびりびりするような夜寒《よさむ》に惜しげもなく伝法《でんぽう》にさらして、さすがに寒気《かんき》に足を早めながら、招《よ》ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざと履《は》き物《もの》の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈《かいわい》では葉子は眦《まなじり》を反《かえ》して人から見られる事はあるまい。
珍しくあっさり[#「あっさり」に傍点]した、魚の鮮
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