た。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。
 「もう飯《めし》を食っとる暇はない。またしばらく忙《せわ》しいで木《こ》っ葉《ぱ》みじんだ。今夜はおそいかもしれんよ。おれたちには天長節《てんちょうせつ》も何もあったもんじゃない」
 そういわれてみると葉子はきょうが天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶《かんかつ》になった。
 倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄《てすり》から下をのぞいて見た。両側に桜並み木のずっ[#「ずっ」に傍点]とならんだ紅葉坂《もみじざか》は急|勾配《こうばい》をなして海岸のほうに傾いている、そこを倉地の紺羅紗《こんらしゃ》の姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅《しんく》に紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない空気の中にあざやかにならんでいた。その間に英国の国旗が一本まじってながめられるのも開港場らしい風情《ふぜい》を添えていた。
 遠く海のほうを見ると税関の桟橋に繋《もや》われた四|艘《そう》ほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸《えじままる》もまじっていた。まっさおに澄みわたった海に対してきょうの祭日を
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