「えゝ」
 と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返して眉《まゆ》をひそめた。葉子には仮病《けびょう》を続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、
 「ですけれどもまだこんななんですの。こら動悸《どうき》が」
 といいながら、地味《じみ》な風通《ふうつう》の単衣物《ひとえもの》の中にかくれたはなやかな襦袢《じゅばん》の袖《そで》をひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと同時に呼吸をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とつめて、心臓と覚《おぼ》しいあたりにはげしく力をこめた。古藤はすき通るように白い手くびをしばらくなで回していたが、脈所《みゃくどころ》に探りあてると急に驚いて目を見張った。
 「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」
 「いゝえ、お腹《なか》も痛みはじめたんですの」
 「どんなふうに」
 「ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と錐《きり》ででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」
 古藤は静かに葉子の手を離して、大きな目で深々《ふかぶか》と葉子をみつめた。
 「医者を呼ばなくっても
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