我慢ができますか」
 葉子は苦しげにほほえんで見せた。
 「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた永田《ながた》さん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事までお願いしちゃあ……ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」
 古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。
 実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調《ととの》えかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と許嫁《いいなずけ》の間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事だった。
 それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、葉子の母の親佐《おやさ》が何かの用でその良人《おっと》の書斎に行こうと階子段《はしごだん》をのぼりかけ
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