》が……早く出て……早く……」
 事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気《いき》も絶《た》え絶《だ》えに、
 「どうぞ出て……あっちに行って……」
 といいながら、いつまでも泣き続けた。

    一九

 しばらくの間《あいだ》食堂で事務長と通り一ぺんの話でもしているらしい木村が、ころを見計らって再度葉子の部屋《へや》の戸をたたいた時にも、葉子はまだ枕《まくら》に顔を伏せて、不思議な感情の渦巻《うずま》きの中に心を浸していたが、木村が一人《ひとり》ではいって来たのに気づくと、始めて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで袖口《そでぐち》のまくれたまっ白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は葉子の激しく泣いたのを見てから、こらえこらえていた感情がさらに嵩《こう》じたものか、涙をあふれんばかり目がしらにためて、厚ぼったい口びるを震わせながら、痛々しげに葉子の顔つきを見入って突っ立った。
 葉子は、今まで続けていた沈黙の惰性で第一口をきくのが物懶《ものう》かったし、木村はなんといい出し
前へ 次へ
全339ページ中281ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング