引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉《いっせい》に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははた[#「はた」に傍点]と葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。
 「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
 葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
 「葉子さん」
 と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の心《しん》まで紅《あか》くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっ[#「はっ」に傍点]と身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。
 「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命
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