なんだ。命なんです」
といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬《ほお》を伝った。膝《ひざ》から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
もう声さえ続かなかった。そして深々と息気《いき》をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、82−8]《きべこきょう》と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地《ここち》になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人《ひとり》でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節《ふし》がなかった。葉子はその男か
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