ったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶《あいさつ》のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢《びん》のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっ[#「じっ」に傍点]と田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄《てすり》のほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。
 田川夫人も思わず良人《おっと》の向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、顎《あご》の固い夫人の顔は、軽蔑《けいべつ》と猜疑《さいぎ》の色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着《とんじゃく》なく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見やるのだった。
 「田川法学|
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