もこの恐ろしい魔術のような力に抵抗しようとした。破滅が眼の前に迫った。深淵が脚の下に開けた。そう思って彼女は何とかせねばならぬと悶《もだ》えながらも何んにもしないでいた。慌《あわ》て戦《おのの》く心は潮《うしお》のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。
 もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間に傾き倒れて行った。はっ[#「はっ」に傍点]と驚く暇もなく彼女は何所《どこ》とも判《わか》らない深みへ驀地《まっしぐら》に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目《めしい》のようだった。真暗な闇の間を、颶風《ぐふう》のような空気の抵抗を感じながら、彼女は落ち放題に落ちて行った。「地獄に落ちて行くのだ
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