下った旗や旒《ながばた》を静かになぶった。クララはふと眼をあげて祭壇を見た。花に埋められ香をたきこめられてビザンチン型《けい》の古い十字架聖像《クロチェ・フィッソ》が奥深くすえられてあった。それを見るとクララは咽《む》せ入りながら「アーメン」と心に称《とな》えて十字を切った。何んという貧しさ。そして何んという慈愛。
 祭壇を見るとクララはいつでも十六歳の時の出来事を思い出さずにはいなかった。殊にこの朝はその回想が厳しく心に逼《せま》った。
 今朝《けさ》の夢で見た通り、十歳の時|眼《ま》のあたり目撃した、ベルナルドーネのフランシスの面影《おもかげ》はその後クララの心を離れなくなった。フランシスが狂気になったという噂《うわ》さも、父から勘当を受けて乞食の群に加わったという風聞も、クララの乙女心を不思議に強く打って響いた。フランシスの事になるとシッフィ家の人々は父から下女の末に至るまで、いい笑い草にした。クララはそういう雑言《ぞうごん》を耳にする度に、自分でそんな事を口走ったように顔を赤らめた。
 クララが十六歳の夏であった、フランシスが十二人の伴侶《なかま》と羅馬《ローマ》に行って、イノセント三世から、基督《キリスト》を模範にして生活する事と、寺院で説教する事との印可《いんか》を受けて帰ったのは。この事があってからアッシジの人々のフランシスに対する態度は急に変った。ある秋の末にクララが思い切ってその説教を聞きたいと父に歎願した時にも、父は物好きな奴だといったばかりで別にとめはしなかった。
 クララの回想とはその時の事である。クララはやはりこの堂母《ドーモ》のこの座席に坐っていた。着物を重ねても寒い秋寒に講壇には真裸《まっぱだか》なレオというフランシスの伴侶《なかま》が立っていた。男も女もこの奇異な裸形《らけい》に奇異な場所で出遇って笑いくずれぬものはなかった。卑しい身分の女などはあからさまに卑猥《ひわい》な言葉をその若い道士に投げつけた。道士は凡ての反感に打克《うちか》つだけの熱意を以て語ろうとしたが、それには未だ少し信仰が足りないように見えた。クララは顔を上げ得なかった。
 そこにフランシスがこれも裸形のままで這入《はい》って来てレオに代って講壇に登った。クララはなお顔を得《え》上げなかった。
 「神、その独子《ひとりご》、聖霊及び基督の御弟子《みでし》の頭《かしら
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