はあとからあとから涙が湧き流れた。眼に触れるものは何から何までなつかしまれた。
一人の婢女《はしため》を連れてクララは家を出た。コルソの通りには織るように人が群れていた。春の日は麗《うらら》かに輝いて、祭日の人心を更らに浮き立たした。男も女も僧侶もクララを振りかえって見た。「光りの髪のクララが行く」そういう声があちらこちらで私語《ささや》かれた。クララは心の中で主の祈を念仏のように繰返し繰返しひたすらに眼の前を見つめながら歩いて行った。この雑鬧《ざっとう》な往来の中でも障碍《しょうがい》になるものは一つもなかった。広い秋の野を行くように彼女は歩いた。
クララは寺の入口を這入《はい》るとまっすぐにシッフィ家の座席に行ってアグネスの側に坐を占めた。彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんな事に頓着《とんじゃく》はしていなかった。彼女は座席につくと面《おもて》を伏せて眼を閉じた。ややともすると所も弁《わきま》えずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明かな意識の中にありながら、凡《すべ》てのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄《しょうじょう》な世界にクララの魂だけが唯《ただ》一つ感激に震えて燃えていた。死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とが交《かわ》る交《がわ》る襲って来た。不安が沈静に代る度にクララの眼には涙が湧き上った。クララの処女らしい体は蘆《あし》の葉のように細かくおののいていた。光りのようなその髪もまた細かに震えた。クララの手は自《おのずか》らアグネスの手を覓《もと》めた。
「クララ、あなたの手の冷たく震える事」
「しっ、静かに」
クララは頼りないものを頼りにしたのを恥じて手を放した。そして咽《む》せるほどな参詣人《さんけいにん》の人いきれの中でまた孤独に還った。
「ホザナ……ホザナ……」
内陣から合唱が聞こえ始めた。会衆の動揺は一時に鎮《しずま》って座席を持たない平民たちは敷石の上に跪《ひざまず》いた。開け放した窓からは、柔かい春の光と空気とが流れこんで、壁に垂れ
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