クララの出家
有島武郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暗い中《うち》に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)神の子|基督《キリスト》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はっ[#「はっ」に傍点]
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これも正しく人間生活史の中に起った実際の出来事の一つである。
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また夢に襲われてクララは暗い中《うち》に眼をさました。妹のアグネスは同じ床の中で、姉の胸によりそってすやすやと静かに眠りつづけていた。千二百十二年の三月十八日、救世主のエルサレム入城を記念する棕櫚《しゅろ》の安息日《あんそくび》の朝の事。
数多い見知り越しの男たちの中で如何《どう》いう訳か三人だけがつぎつぎにクララの夢に現れた。その一人はやはりアッシジの貴族で、クララの家からは西北に当る、ヴィヤ・サン・パオロに住むモントルソリ家のパオロだった。夢の中にも、腰に置いた手の、指から肩に至るしなやかさが眼についた。クララの父親は期待をもった微笑を頬《ほお》に浮べて、品よくひかえ目にしているこの青年を、もっと大胆に振舞えと、励ますように見えた。パオロは思い入ったようにクララに近づいて来た。そして仏蘭西《フランス》から輸入されたと思われる精巧な頸飾《くびかざ》りを、美しい金象眼《きんぞうがん》のしてある青銅の箱から取出して、クララの頸に巻こうとした。上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩《めまい》に襲われた。胸の皮膚は擽《くすぐ》られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体《したい》は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥《しゅうち》を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳《ひとみ》は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇《くちびる》は熱い息気《いき》のためにかさかさに乾いた。油汗の沁《し》み出た両手は氷のように冷えて、青年を押もどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二《しゃにむに》前の方に押し進もうとした。
クララは半分気を失いながら
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