もこの恐ろしい魔術のような力に抵抗しようとした。破滅が眼の前に迫った。深淵が脚の下に開けた。そう思って彼女は何とかせねばならぬと悶《もだ》えながらも何んにもしないでいた。慌《あわ》て戦《おのの》く心は潮《うしお》のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。
もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間に傾き倒れて行った。はっ[#「はっ」に傍点]と驚く暇もなく彼女は何所《どこ》とも判《わか》らない深みへ驀地《まっしぐら》に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目《めしい》のようだった。真暗な闇の間を、颶風《ぐふう》のような空気の抵抗を感じながら、彼女は落ち放題に落ちて行った。「地獄に落ちて行くのだ」胆《きも》を裂くような心咎《こころとが》めが突然クララを襲った。それは本統《ほんとう》はクララが始めから考えていた事なのだ。十六の歳《とし》から神の子|基督《キリスト》の婢女《しもべ》として生き通そうと誓った、その神聖な誓言《せいごん》を忘れた報いに地獄に落ちるのに何の不思議がある。それは覚悟しなければならぬ。それにしても聖処女によって世に降誕した神の子基督の御顔を、金輪際《こんりんざい》拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえり[#「とんぼがえり」に傍点]を打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。
ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱《りょうひじ》は棚《たな》のようなものに支えられて、膝《ひざ》がしらも堅い足場を得ていた。クララは改悛者《かいしゅんしゃ》のように啜泣《すすりな》きながら、棚らしいものの上に組み合せた腕の間に顔を埋めた。
泣いてる中《うち》にクララの心は忽《たちま》ち軽くなって、やがては十ばかりの童女の時のような何事も華やかに珍らしい気分になって行った。突然華やいだ放胆な歌声が耳に入った。クララは首をあげて好奇の眼を見張った
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