く光の中に投げ出された。芝生も泥の海ももうそこにはなかった。クララは眼がくらみながらも起き上がろうともがい[#「もがい」に傍点]た。クララの胸を掴んで起させないものがあった。クララはそれが天使ガブリエルである事を知った。「天国に嫁《とつ》ぐためにお前は浄《きよ》められるのだ」そういう声が聞こえたと思った。同時にガブリエルは爛々《らんらん》と燃える炎の剣をクララの乳房の間からずぶり[#「ずぶり」に傍点]とさし通した。燃えさかった尖頭《きっさき》は下腹部まで届いた。クララは苦悶の中《うち》に眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督《キリスト》の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如《ごと》くおののいた。喉《のど》も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾《しぼ》り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。
 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっ[#「そっ」に傍点]と起き上って窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁闇《あかつきやみ》の中に厳かな姿を見せていた。クララは扉《とびら》をあけて柔かい春の空気を快く吸い入れた。やがてポルタ・カプチイニの方にかすかな東明《しののめ》の光が漏れたと思うと、救世主のエルサレム入城を記念する寺の鐘が一時に鳴り出した。快活な同じ鐘の音は、麓《ふもと》の町からも聞こえて来た、牡鶏《おんどり》が村から村に時鳴《とき》を啼《な》き交すように。
 今日こそは出家して基督《キリスト》に嫁ぐべき日だ。その朝の浅い眠りを覚ました不思議な夢も、思い入った心には神の御告げに違いなかった。クララは涙ぐましい、しめやかな心になってアグネスを見た。十四の少女は神のように眠りつづけていた。
 部屋は静かだった。

       ○

 クララは父母や妹たちより少しおくれて、朝の礼拝《れいはい》に聖《サン》ルフィノ寺院に出かけて行った。在家《ざいけ》の生活の最後の日だと思うと、さすがに名残が惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。「クララの光りの髪」とアッシジで歌われたその髪を、真珠紐《しんじゅひも》で編んで後ろに垂れ、ベネチヤの純白な絹を着た。家の者のいない隙《すき》に、手早く置手紙と形見の品物を取りまとめて机の引出しにしまった。クララの眼に
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