きた飯を噛《か》んで食べた。自炊を嫌《きら》ふ階下の亭主の当てこすりの毒舌を耳に留めてからは、私はたいがい乾餅《ほしもち》ばかり焼いて食べてゐた。階下の離座敷を借りてゐる長身の陸軍士官が、毎朝サーベルの音をガチヤンと鳴らして植込みの飛石の上から東京弁で、「行つて参ります」と活溌な声をかけると、亭主は、「へえ、お早うお帰りませ」と響の音に応ずる如く言ふのであつた。私は教科書を包んだ風呂敷包みを抱《かゝ》へて梯子段《はしごだん》を下り、士官の音調《アクセント》に似せ、「行つて参ります」と言ふと、亭主は皮肉な笑ひを洩しながら、「へえ」と、頤《あご》で答へるだけだつた。私は背後に浴びせる亭主はじめ女房や娘共の嘲笑が聞えるやうな気がした。仄暗《ほのぐら》いうちに起きて家人の眼をかくれ井戸端でお米を磨《と》いだりして、眠りの邪魔をされる悪口ならまだしも、私が僻《ひが》んで便所に下りることも気兼ねして、醤油壜《しやうゆびん》に小便を溜《た》めて置きこつそり捨てることなど嗅ぎ知つて、押入を調べはすまいかを懸念《けねん》した。誰かそつと丼《どんぶり》や小鍋《こなべ》の蓋《ふた》を開けて見た形跡のあつた日は、私はひどく神経を腐らした。そこにも、こゝにも、哀れな、小さい、愚か者の姿があつた。と言つても、背に笞《むち》してひたすら学業にいそしむことを怠りはしなかつた。
俄然、張り詰めた心に思ひもそめない、重い/\倦怠《けんたい》が、一時にどつと襲ひかゝつた。恰《あたか》もバネが外れて運動を止めたもののやうに、私は凡てを投げ出し無届欠席をした。有らゆる判断を除外した。放心の数日を過した。
私は悄々《しを/\》と村の家に帰つて行き、学校を退くこと、将来稼業を継いで百姓をするのに別段中学を出る必要はないこと、家のものと一しよに働きたいと言つた。
父と母と縁側に腰かけて耳に口を当て合ふやうにし何かひそ/\相談をした。
「左様《さう》してくれるんか。えらい覚悟をしてくれた。何んせ、学問よりや、名誉よりや、身代が大切ぢやで、えゝとこへ気がついた」と父が言つた。所帯が苦しいゆゑの退学などとの風評を防ぐ手だてに、飽《あく》まで自発行動であることを世間に言ふやうにと父は言ひ付けた。
半生の間に、母が私の退校当座の短時日ほど、私を劬《いたは》り優しくしてくれたためしはなかつた。母はかね/″\私を学校から引き退げようと、何程陰に陽に父に含めてゐたかもしれなかつたから。私は午前中だけ野良《のら》に出て百姓の稽古《けいこ》をし、午後は講義録を読んだ。私は頓《とみ》に積年の重たい肩の荷を降した気がした。こゝでは、誰と成績を競ふこともなく、伊藤も、ばア様も、川島舎監長も、下駄屋の亭主もゐなかつた。在《あ》るものは唯《たゞ》解放であつた。私は小さいながら浮世の塵《ちり》を彼方に遠く、小ぢんまりした高踏に安んじ、曇りのない暫時の幸福なり平安なりを貪《むさぼ》つてゐた。
が、飽くことない静穏、それ以上不足を感じなかつた世と懸け離れた生活も、束《つか》の間《ま》の仇《あだ》なる夢であつた。父の生命の全部、矜《ほこ》りの全部としてゐる隣人に対する偽善的行為に、哀れな売名心に、さうした父の性格の中の嘘をそつくり受け継いでゐて何時も苛々《いら/\》してゐる私は、苦もなく其処《そこ》に触れて行つて父を衝撃した。私と父とは、忽ち諍《いさか》ひ、忽ち和解し、誰よりも深く憎み、誰よりも深く赦《ゆる》した。夜中の喚《わめ》き罵《のゝし》る声に驚いて雨戸まで開けた近所の人達は朝には肩を並べて牛を引いて田圃《たんぼ》に出て行く私共父子を見て呆気《あつけ》にとられた。臆病に、大胆に、他を傷つけたり、疑つたり、連日連夜の紛争と愛情の交錯とはいよ/\こじれて、長時の釈《と》け難い睨《にら》み合《あ》ひの状態になつた。
家庭の風波の渦巻の中で私は雪子の面影を抱いて己を羽含《はぐゝ》んだ。雪子はまだ高等小学の一年生で、私の家から十町と隔たらない十王堂の高い石段の下の栗林の中に彼女の家はあつた。私が八歳の幼時、春風が戸障子《としやうじ》をゆすぶる日の黄昏《たそがれ》近くであつたが、戸口の障子を開けると、赤い紐《ひも》の甲掛草履《かふがけざうり》を穿《は》いたお河童《かつぱ》の雪子が立つてゐた。何うして遊びに来たものか、たゞ、風に吹かれて紛れ込んだ木の葉のやうなものであつた。私は雪子の手を引いて母の手もとに届けてやつた。偶然に見染めた彼女の幻はずつと眼から去らず、或年の四月の新学期に小学校に上つて来た彼女を見附けた日は私は、一夜うれしさに眠就《ねつ》かれなかつた。相見るたびに少年少女ながら二人は仄《ほの》かな微笑と首肯《うなづき》との眼を交はし、唇を動かした。私は厚かましく彼女の教室を覗《のぞ》き、彼女の垂髪《おさげ》に触れたり、机の蓋《ふた》をはぐつてお清書の点を検べたりした。何んと言つても雪子は私一人のものであつた。盂蘭盆《うらぼん》が来て十王堂の境内からトントコトコといふ音が聞え出すと、私はこつそり家を抜け出し山寄の草原径を太鼓の音の方に歩いて行つて、其処で人目を忍ぶやうにして見た、赤紐で白い腮《あご》をくゝつて葦《あし》の編笠《あみがさ》を深目にかぶつた雪子の、長い袖をたを/\と波うたせ、若衆の叩く太鼓に合せて字村《あざむら》の少女たちに混つて踊つてゐる姿など、そんな晩は夜霧が川辺や森の木立を深くつゝんでゐて、家に帰つて寝床に入つてからも夜もすがら太鼓の音が聞えて来たことなど、年々の思ひ出が頻《しき》りに懐《なつか》しまれるに従ひ、加速度に奇態な、やる瀬ない、様々な旋律が私の心を躍動させた。これが恋だと自分に判つた。私は用事にかこつけて木槿《むくげ》の垣にかこまれた彼女の茅葺《かやぶき》屋根の家の前を歩いた。彼女を見たさに、私は川下の寺へ漢籍を毎夜のやうに習ひに行つてはそこへ泊つて朝学校へゆく彼女と路上で逢ふやうにした。下豊《しもぶくれ》の柔和な顔であるのに私に視入られると雪子は、頬をひき吊り蟀谷《こめかみ》のかすかな筋をふるはせた。この恋の要求が逸早《いちはや》く自分の身なりに意を留めさせ、きたない顔を又気に病ませた。それまで蔭で掛けては鏡を見てゐたニッケルの眼鏡《めがね》を大びらに人前でも掛けさせた。ちやうど隣村へ嫁入つてゐる姉の眼が少し悪くて姑《しうと》の小言の種になつてゐた際で、眼病が一家の疾のごと断定されはしまいかとの虞《おそ》れから、母は私の伊達《だて》眼鏡を嫌ひ厭味《いやみ》のありつたけを言つたが、しかし一向私は動じなかつた。私は常に誰かに先鞭《せんべん》をつけられさうなことを気遣つて、だから年端《としは》のゆかぬ雪子にどうかして一日も早く意中を明かしたいと、ひとりくよ/\胸を痛めた。好都合に雪子の母がひそかに私の気持を感附いてくれ、それとなく秋祭に私を招いて、雪子にご馳走のお給仕をさせた。下唇をいつも噛む癖があつて、潤つた唇に薄桃色の血の色が美しくきざしかけてゐる雪子は、盆を膝の上にのせて俯向いてゐた。お膳が下げられて立ち際に私がかゝへた瀬戸の火鉢が手から滑り落ちて粉微塵《こなみぢん》に砕けた。雪子は箒《はうき》と塵取とを持つて来てくれ、私は熱灰《あつばひ》を塵取の中に握り込むやうなことをしたが、畳の上にあちこち黒焦げが残つた。私は真赤に顔を染めて雪子の父に謝《あやま》つた。
遂《つひ》に私は無我夢中に逆上して、家へ出入りするお常婆を介して、正式に許嫁《いひなづけ》の間にして貰へるやう私の父母に当つて見てくれと頼んだ。一方私は俄《にはか》に気を配つて父や母を大切にし出した。お常婆は雨の降り頻《しき》る或晩、弓張提灯《ゆみはりぢやうちん》など勿体《もつたい》らしくつけて、改まつて家へ来た。
「恥ぢを知れ!」
母はお常婆を追ひ返すと、ばた/\走つて来て私の肩を小突き、凄い青筋をむく/\匐《は》はせ眼を血走らせて、さも憎々しげに罵つた。
「どうも、此頃、様子がへん[#「へん」に傍点]と思うちよつたい。われや、お祭にもよばれて行つたちふこつちや。お常婆に頼うだりしち、クソ馬鹿!」
「お母《つか》ア! わツしや、ホトトギスの武夫と浪子のやうな清い仲にならうと思うたんぢや。若い衆のとは違ふ。悪いこつちやない!」と、私は室の隅に追ひすくめられ乍らも、余りの無念さに勃然として反抗した。
「えーい、何んぢやと、恥ぢを知れ!」と、母は手を上げて打たうとした。
父の不賛成は言ふまでもなかつた。曾《かつ》て雪子の父と山林の境界で裁判沙汰《さいばんざた》になるまで争つたのだから。でも固く口を緘《とざ》してゐた。二三日したお午《ひる》、果樹園から帰つた父は裸になつて盥《たらひ》の水を使ひ乍ら戸口に来たきたない乞食《こじき》を見て、「ブラ/\遊んでをる穀《ごく》つぶしめア、今にあん通りになるんぢや」と私に怖《こは》い凝視を投げて甲走《かんばし》つた声で言つた。即座に母が合槌《あひづち》を打つた。下男も父母に阿《おもね》つた眼で私を見た。私は意地にも万難を排し他日必ず雪子と結婚しようと思つた。さう心に誓つてゐて、私は自棄の気味と自《おのづ》からなる性の目覚めとで、下女とみだらな関係を結んだ。入り代りに来た、頬の赤い、団子鼻の下女の寝床に、深夜私は蟹《かに》のやうに這《は》つて忍び込んだが、他に男があるからと言つて、言ひ寄つた私に見事|肘鉄砲《ひぢでつぱう》を喰はした。男の面目を踏み潰された悔しさから私は、それならせめて贈物だけでも受けてくれと歎願し、翌日は自転車に乗つて町へ買ひに行き、そつと下女に手渡すと、下女は無愛想にボール箱の蓋を開け、簪《かんざし》をつまみ出し、香水の瓶をちよつと鼻の先に当てて匂ひを嗅ぐと、礼も言はずに戸棚の中に蔵《しま》つた。
そんなことも忽ちバレてしまつた。最早私は、家のものからも、近所の誰からも軽蔑された。道を歩けば、子供でさへ指を差して私のことを嗤《わら》つた。私は道の行き過ぎに私を弥次る子供が何より怖くて、子供の群を見つけると遠廻りしても避けるなど、日々卑屈になつて行つた。
二年の月日が経つた。それまで時をり己が変心を悔いたやうな詫《わ》びの便りを寄越してゐた伊藤が、今度中学を卒業し、学校の推薦でK市の高等学校へ無試験で入る旨を知らせて来た。私が裏の池のほとりにつくばつて草刈鎌を砥石《といし》で研《と》いでゐるところへ、父はその葉書を持つて来て、
「われも、中学を続けときや、卒業なれたのに、惜しいことをしたのう。半途でやめて、恥ぢばつかり掻《か》いて……」と、如何にも残念さうに言ひ放つて、顔を硬張《こはゞ》らせ、広い口を真一文字に結んで太い溜息を吐いた。
徴兵検査が不合格になると私はY町の瓦斯《ガス》会社の上役の娘と結婚した。中学に入学した折、古ぼけた制服を着た一人の生徒の、胸のポケットの革の鉛筆|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さし》に並べて※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した、赤や青や紫やの色とり/″\の鉛筆と、それ等の鉛筆の冠つた光彩陸離たるニッケルのカップとが、私の眼を眩惑《げんわく》させたのであつた。その生徒は英語が並外れて達者なので非常な秀才だらうと驚きの眼をもつて見てゐたのに、後で分つたがそれは落第生であつた。私の妻はその落第生の姉であつたことを知つて、くすぐつたいやうな妙にイヤな気がした。それに何んといふ手落ちな頓馬《とんま》なことであつたであらう、婚礼の晩の三三九度の儀式に私はわなわな顫《ふる》へて三つ組の朱塗の大杯を台の上に置く時カチリと音をさせたが、彼女は実に落着払つてやつてのけたのも道理、彼女は三三九度がこれで二度目の出戻りであつたことを知つたのは子供が産れて一年もしてからであつた。私は彼女の鏡台を足蹴《あしげ》にして踏折つた、針箱を庭に叩きつけた、一度他家に持つて行つたものを知らん顔して携へて来るなど失敬だと怒つて。さうして性懲《しやうこ》りのない痴
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