つて言ひ知れぬ苦しい吐息をついた。帰りがけに父は町の時計屋で蔓《つる》の細い銀縁の眼鏡を私に買つてくれた。――それから約《およ》そ一週日を経ていよ/\決行の日、思ひ設けず雪子に邂逅《かいこう》したわけである。二人はちら[#「ちら」に傍点]と視線を合せたが、彼女の方が先に眼を伏せた。私はあわてて店頭を逃げ、二三の買物を取纏《とりまと》め、裏通りから停車場の方へ、小石を洗ふやうにして流れてゐる浅い流れの川土手の上を歩いた。疎《まば》らに並んだ古い松が微風に緩《ゆる》やかにざわめいてゐた。突如、不思議と幾年か昔中学に入るとき父につれられて歩いた長い松原の、松の唸《うな》りが頭の中に呼び返された。さうして今、父も、祖先伝来の山林田畠も、妻子も打棄てて行く我身をひし/\と思つた。と頭を上げると、一筋道の彼方からパラソルをさした雪子がこちらに近づいて来てゐた。今度は双方でほゝゑみを交はしてお叩頭《じぎ》をした。「何ゆゑ、わたしを貰つて下さいませんでした?」といふ風の眼で面窶《おもやつ》れた弱々しい顔をいくらか紅潮させて私を視た。行き違ふと私は又俯向いた。私は妻を愛してないわけではなく、彼女が実家に
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