潤んだ涼しい眼や、口尻のしまつた円顔やに雪子の面影を見出して、香川を可愛ゆく思ひ、また夢見るやうな儚《はかな》い心地で、私は遠い過去の果しない追憶に耽《ふけ》るのであつた。
私がY町で女と駈落ちしようとして、旅行案内を買ひに町の広小路の本屋に行くと、春のショールを捲き、洋傘をかゝへた蒼ざめた雪子が、白い腕をのべて新刊の婦人雑誌の頁《ページ》をめくつてゐるのに出逢つた。――彼女は私の結婚後一二年は独身でゐた。家が足軽くらゐのため、農家には向かず、なか/\貰ひ手がなかつた。雪子の父の白鬚《しろひげ》の品の好いお爺さんは、「頼んでも大江へ貰うて貰へばよかつたのに」と、残念がつてゐるとのことを私は人伝《ひとづて》に聞いた。後、海軍の兵曹の妻になつてH県のK軍港の方に行き難儀してゐるらしかつたが、病気に罹《かゝ》つて実家に帰りY町の赤十字病院に入院してゐるといふ噂であつた。その頃私は妻子を村に残してY町で勤めをしてゐたが、一日父が私のもとに来て、「あの娘は肺病ぢやげな。まあ、ウチで貰はんでよかつた」と私に言つた。その時は既に、私は妻も子供も家も棄《す》て去る決心でゐたので、ひどく父を気の毒に思
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