言ひ足りなかつた。自制克己も、思慮の安定もなく、疲労と倦怠との在《あ》るがまゝに流れて来たのであつた。
或年の秋の大掃除の時分、めつきり陽《ひ》の光も弱り、蝉《せみ》の声も弱つた日、私は門前で尻を端折り手拭で頬冠りして、竹のステッキで畳を叩いてゐた。其処へ、まだまるで紅顔の少年と言ひたいやうな金釦《きんボタン》の新しい制服をつけた大学生が、つか/\と歩み寄つて、
「あなたは、大江さんでせう?」と、問ひかけた。
「……」私は頬冠りもとかずに、一寸顔を擡《もた》げ、きよとん[#「きよとん」に傍点]と大学生の顔を視上げた。「あなたは、どなたでせうか?」
「僕、香川です。四月からW大学に来てゐます。前々からお訪ねしようと思つてゐて、ご住所が牛込矢来とだけは聞いてゐましたけれども……」
「香川……あ、叉可衛《さかゑ》さんでしたか。ほんとによく私を覚えてゐてくれましたねえ」
私はすつかり魂消《たまげ》てしまつた。香川は私の初恋の娘雪子の姉の子供であつた。私は大急ぎで自分の室を片附け、手足を洗つて香川を招じ上げた。そして近くの西洋料理店から一品料理など誂《あつら》へ、ビールを抜いて歓待した。彼の
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