去ると言へば泣いて引き留めたものだが、でも彼女が出戻りだといふことで、どうしても尊敬することが出来ず生涯を共にすることに精神上の張合ひがなかつた。私はもしも自分が雪子と結婚してゐたら、彼女の純潔を尊敬して、かういふ惨《みじ》めな破綻《はたん》は訪れないだらうと思つた。私は直ぐ駅で待合せた女と汽車に乗つたが、発《た》ち際《ぎは》のあわたゞしさの中でも、彼を思ひ、是を思ひ、時に朦朧《もうろう》とした[#「朦朧とした」は底本では「朧朦とした」]、時に炳焉《へいえん》とした悲しみに胴を顫ひ立たせ、幾度か測候所などの立つてゐる丘の下を疾駆する車内のクッションから尻を浮かせて「あゝゝ」とわめき呻《うめ》いたのであつた。……
足掛け六年の後、雪子の甥《をひ》の香川を眼の前に置いて、やはり思はれるものは、若《も》し雪子と結婚してゐたら、田舎の村で純樸な一農夫として真面目《まじめ》に平和な生涯をおくるであらうこと、寵栄《ちようえい》を好まないであらうこと、彼女と日の出と共に畠に出、日の入りには、鍬《くは》や土瓶を持つて並んで家に帰るであらうこと。一生の間始終笑ひ声が絶えないやうな生活の夢想が、憧憬《ど
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