ら引き退げようと、何程陰に陽に父に含めてゐたかもしれなかつたから。私は午前中だけ野良《のら》に出て百姓の稽古《けいこ》をし、午後は講義録を読んだ。私は頓《とみ》に積年の重たい肩の荷を降した気がした。こゝでは、誰と成績を競ふこともなく、伊藤も、ばア様も、川島舎監長も、下駄屋の亭主もゐなかつた。在《あ》るものは唯《たゞ》解放であつた。私は小さいながら浮世の塵《ちり》を彼方に遠く、小ぢんまりした高踏に安んじ、曇りのない暫時の幸福なり平安なりを貪《むさぼ》つてゐた。
 が、飽くことない静穏、それ以上不足を感じなかつた世と懸け離れた生活も、束《つか》の間《ま》の仇《あだ》なる夢であつた。父の生命の全部、矜《ほこ》りの全部としてゐる隣人に対する偽善的行為に、哀れな売名心に、さうした父の性格の中の嘘をそつくり受け継いでゐて何時も苛々《いら/\》してゐる私は、苦もなく其処《そこ》に触れて行つて父を衝撃した。私と父とは、忽ち諍《いさか》ひ、忽ち和解し、誰よりも深く憎み、誰よりも深く赦《ゆる》した。夜中の喚《わめ》き罵《のゝし》る声に驚いて雨戸まで開けた近所の人達は朝には肩を並べて牛を引いて田圃《たんぼ》
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