きた飯を噛《か》んで食べた。自炊を嫌《きら》ふ階下の亭主の当てこすりの毒舌を耳に留めてからは、私はたいがい乾餅《ほしもち》ばかり焼いて食べてゐた。階下の離座敷を借りてゐる長身の陸軍士官が、毎朝サーベルの音をガチヤンと鳴らして植込みの飛石の上から東京弁で、「行つて参ります」と活溌な声をかけると、亭主は、「へえ、お早うお帰りませ」と響の音に応ずる如く言ふのであつた。私は教科書を包んだ風呂敷包みを抱《かゝ》へて梯子段《はしごだん》を下り、士官の音調《アクセント》に似せ、「行つて参ります」と言ふと、亭主は皮肉な笑ひを洩しながら、「へえ」と、頤《あご》で答へるだけだつた。私は背後に浴びせる亭主はじめ女房や娘共の嘲笑が聞えるやうな気がした。仄暗《ほのぐら》いうちに起きて家人の眼をかくれ井戸端でお米を磨《と》いだりして、眠りの邪魔をされる悪口ならまだしも、私が僻《ひが》んで便所に下りることも気兼ねして、醤油壜《しやうゆびん》に小便を溜《た》めて置きこつそり捨てることなど嗅ぎ知つて、押入を調べはすまいかを懸念《けねん》した。誰かそつと丼《どんぶり》や小鍋《こなべ》の蓋《ふた》を開けて見た形跡のあつた日
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