つた。
「君は黒い、頸筋なんぞ墨を流したやうなぞ」
と言つて伊藤は私の骨張つた頸ツ玉に手をかけ、二三歩後すさりに引つ張つた。私の衷《うち》を幽《かす》かな怖《おそ》れと悲しみが疾風のごとく走つた。
「僕も黒いか? ハツハヽヽ」
畳みかけて伊藤は真率に訊《き》いた。相当黒いはうだと思つたが、いや、白い、と私は嘘《うそ》を吐《つ》いた。
毫《がう》も成心があつてではないが、伊藤は折ふし面白半分に私の色の黒いことを言つてからかつた。それが私の不仕合せなさま/″\の記憶を新にした。多分八九歳位の時代のことであつた。私の一家は半里隔つた峠向うに田植に行つた。水田は暗い低い雲に蔽はれて、蛙も鳴かず四辺は鎮まつてゐた。母がそこの野原に裾《すそ》をまくつて小便をした。幼い妹が母にむづかつてゐた。その場の母の姿に醜悪なものを感じてか父は眉をひそめ、土瓶《どびん》の下を焚《た》きつけてゐた赤い襷《たすき》がけの下女と母の色の黒いことを軽蔑《けいべつ》の口調で囁《さゝや》き合つた。妹に乳をふくませ乍ら破子《わりご》の弁当箱の底を箸《はし》で突つついてゐた母が、今度は私の色の黒いことを出し抜けに言つた。
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