り乍ら不圖《ふと》思ひ出したやうに「圭一郎はなんとしとるぢやろ」と言はれると、ひとり手にお父さまの指から箸が辷り落ちます。夜は十二時、一時になつても奧のお座敷からお父さまお母さまの密々話《ひそ/\ばなし》の聲が洩れ聞えます。お兄さまも時にはお父さまに優しい慰めのお玉章《てがみ》差上て下さい。切なわたくしのお願ひです。お父さまがどんなにお兄さまのお便りを待つていらつしやるかといふことは、お兄さまには想像もつきますまい。川下からのぼつて來る配達夫をお父さまはあの高い丘の果樹園からどこに行くかを凝《ぢ》つと視おろしてゐられます。配達夫が自家《うち》に來てわたくし手招きでお兄さまのお便りだと知らすと、お父さまは狂氣のやうになつて、ほんとにこけつまろびつ歸つて來られます。迚《とて》も/\お兄さまなぞに親心が解つてたまるものですか。
凡そお兄さまが自家を逃亡《でら》れてからといふものは、家の中は全く灯の消えた暗さです。裏の欅山《けやきやま》もすつかり黄葉して秋もいよ/\更けましたが、ものの哀れは一入《ひとしほ》吾が家にのみあつまつてゐるやうに感じられます。早稻《わせ》はとつくに刈られて今頃は晩稻
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