まされない。彼は入口のところまで行つて少時《しばらく》階下の樣子を窺ひ、それから障子を閉めて手紙をひらいた。

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 なつかしい東京のお兄さま。朝夕はめつきり寒さが加はりましたが恙《つゝが》もなくご起居あそばしますか。いつぞやは頂いたお手紙で、お兄さまを苦しめるやうな便りを差し上げては不可《いけない》とあんなにまで仰云《おつしや》いましたけれ共、お兄さまのお心を痛めるとは十分存じながらも奈何《どう》しても書かずにはすまされません。それかと申して何から書きませうか。書くことがあまりに多い。……
 お父さまは一週間前から感冒に罹《かゝ》られてお寢《よ》つてゐられます。それに持病の喘息《ぜんそく》も加つて昨今の衰弱は眼に立つて見えます。こゝのとこ毎日安藤先生がお來診《みえ》になつてカルシウムの注射をして下さいます。何んといつてもお年がお年ですからそれだけに不安でなりません。お父さまの苦しさうな咳聲を聞くたびにわたくし生命の縮まる思ひがされます。「俺が生きとるうちに何んとか圭一郎の始末をつけて置いてやらにやならん」と昨日も病床で仰云いました。腹這ひになつてお粥《かゆ》を召上
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