と耳を澄ましてゐる時、この支那蕎麥屋の笛を聞いて、われを忘れて慟哭《どうこく》したといふのである。千登世にしてみれば、別れろ/\と攻め立てられてG師の前に弱つて首垂《うなだ》れてゐる圭一郎がいぢらしくもあり、恨めしくもあり、否、それにも増して、暗い過去ではあつたがどうにか弱い身體と弱い心とを二十三歳の年まで潔《きよ》く支へて來た彼女が、選りも選んで妻子ある男と駈落ちまでしなければならなくなつた呪うても足りない宿命が、彼女にはどんなにか悲しく、身を引き裂きたい程切なかつたことであらう……。
支那蕎麥屋は家の前のだら/\坂をガタリ/\車を挽いて坂下の方へ下りて行つたが、笛の音だけは鎭まつた空氣を劈《つんざ》いて物哀しげに遙かの遠くから聞えて來た。一瞬間、何んだか北京とか南京とかさうした異郷の夜に、罪業の、さすらひの身を隱して憂念愁怖の思ひに沈んでゐる自分達であるやうにさへ想へて、圭一郎もうら悲しさ、うら寂しさが骨身に沁みた。
「もう寢なさい」と圭一郎は言つた。
「えゝ」
と答へて千登世は縫物を片付け、ピンを拔き髮を解《ほぐ》し、寢卷に着替へようとしたが、圭一郎は彼女の窶《やつ》れた裸姿を
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