の男がうらめしかつた。
「ほんたうに雇つてくれるといゝが……」
 圭一郎は思はず深い溜息を洩らした。
「悄氣《しよげ》ちや駄目ですよ、しつかりなさいな」
 斯う千登世は氣の張りを見せて圭一郎に元氣を鼓舞《つけ》ようとした。が、濡れしをれた衣服の裾がべつたり脚に纒つて歩きにくさうであり、長く伸びた頭髮からポトリ/\と雫の滴《したゝ》る圭一郎のみじめな姿を見た千登世の眼には、夜目にも熱い涙の玉が煌《きら》めいた。
 運好く採用されたのだつたが、千登世はその夜のことを何時までも忘れなかつた。「わたし泣いてはいけないと思つたんですけれど、あの時――だけは悲しくて……」彼女は思ひ出しては時々それを口にした。
 千登世は食後の後片づけをすますと、寛《くつろ》いだ話もそこ/\に切り上げ暗い電燈を眼近く引き下して針仕事を始めた。圭一郎は檢温器を腋下に挾んでみたが、まだ平熱に歸らないので直ぐ寢床に這入つた。
 壁一重の隣家の中學生が頓狂な發音で英語の復習をはじめた。
 What a funy bear !
「あゝ煩さい。もつと小さな聲でやれよ」兄の大學生らしいのが斯う窘《たしな》める。
 中學生は一向平
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