屋事務所に立寄つて相場を手帳に記し、それから大川端の白鷹正宗の問屋を訪うてそこの主人の額に瘤《こぶ》のある大入道から新聞の種を引出さうとあせつてゐるうちに電氣が來た。屋外へ出るともう四邊は眞つ暗だつた。川口を通ふ船の青い灯、赤い灯が暗い水の面に美しく亂れてゐた。
 彼は更に上野山下に廣告係の家を訪ねたが不在であつた。廣小路の夜店でバナナを買ひ、徒歩で切通坂《きりどほしざか》を通つて歸つた。
 食後、千登世はバナナの皮を取りながら、
「でも樂になりましたね」と、沁々した調子で言つた。
「さうね……」
 圭一郎も無量の感に迫られた。
「あの時、わたし……」彼女は言ひかけて口を噤《つぐ》んだ。
 あの時――と言つた丈で二人の間には、その言葉が言はず語らずのうちに互の胸に傳はつた。圭一郎は父の預金帳から四百圓程盜んで來たのであつたが、それは一二ヶ月の間になくしてしまつた。そして一日々々と生活に迫られてゐたのであつた。食事の時香のものの一片にも二人は顏見合はせて箸をつけるといふ風だつた。彼は血眼になつて職業を探したけれど駄目だつた。
「わたし、三越の裁縫部へ出ませうか、あそこなら何時でも雇つてく
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