千登世の無常觀――は過去の閲歴から育《はぐく》まれたのだつた。時折りその感情が潮流のやうに一時に彼女に歸つて來ては彼女をくるしめた。校正で據《よんどころ》なく歸りの遲くなつた夜など、電車の送迎に忙しいひけ時から青電車の時刻も迫つて絶間々々にやつて來る電車を、一臺送つては次かと思ひ、又一臺空しく送つては次かと思ひ、夜更けの本郷通は鎭まつて、鋪道の上の人影も絶えてしまふその頃まで猶《なほ》も一徹に圭一郎の歸りを今か/\と待ちつゞけずにはゐられない千登世の無常觀は到底圭一郎などの想像もゆるさない計り知れない深刻なものであつた。

 次の日の午前中に圭一郎は主人に命じられた丈の仕事は一氣に片付けて午後は父と妹とに宛て長い手紙を書き出した。
「僕は幾ら非人間呼ばはりをされようと不孝者の謗《そし》りを受けようと更に頭はあがらないのです。けれども千登世さんだけはわるく思つて下さいますな。何が辛いといつても一番辛いことはお父さんや春子に彼女が惡者の如く思はれることです。然《さ》う思はれても僕のこの身に罰が當ります。僕の身に立つ瀬がないのですから」斯うした意味のことを疊みかけ疊みかけ書かうとした。
 圭
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