し廻つても無いのである。つい先夜、西片町のとある二階を借りに行つた。夫婦で自炊さして貰ひたいといふと、少ない白髮を茶筅髮《ちやせんがみ》にした紫の被布を着た氣丈な婆さんに顏を蹙《しか》め手を振つて邪慳《じやけん》に斷られての歸途、圭一郎は幾年前の父の言葉をはたと思ひ出し、胸が塞がつて熱い大粒の泪が堰《せ》き切れず湧きあがるのであつた。
 片端《かたは》の足を誰にも氣付かれまいと憔悴《やつれ》る思ひで神經を消磨してゐた内儀さんの口惜しさは身を引き裂いても足りなかつた。さては店頭に集る近所の上さん連中をつかまへて、二階へ聞えよがしに、出て行けがしに彼等の惡口をあることないことおほつぴらに言ひ觸らした。鳶職《とびしよく》である人一倍弱氣で臆病な亭主も、一刻も速く立退いて行つて欲しいと泣顏《べそ》を掻いて、彼等にそれを眼顏で愬《うつた》へた。
 世間は淺い春にも醉うて上野の山に一家打ち連れて出かける人達をうらめしい思ひで見遣り乍ら、二人は慘めな貸間探しにほつつき歩かねばならなかつた。

 二人は、近所の口さがない上さん達の眼を避けるため黎明前に起き出で、前の晩に悉皆《すつかり》荷造りして置いた
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