引き取つた後で貰つて行くべき、物品を、貪狼《たんらう》の如き眼をかゞやかして刻一刻と切迫して來る今際《いまは》の餘喘《よぜん》の漂ふ室内の隅々までも見渡してゐた。彼等は目ぼしい物は勿論、ほんの我樂多《がらくた》までかつぱらつて行つたのだが、相場師が壯年の時分に支那や滿洲三界まで持ち歩いて方々の税關の檢査證や異國の旅館のマークの貼りつけてある廢物に等しいこの大型のトランクだけは、流石《さすが》に千登世に殘された。これは養母の在りし日の榮華の記念物である古琴と共に東京へ携へて來たのであつた。
千登世は貧しい三四枚の身のまはりのものを折り疊んで其トランクに納めてゐた。聲を荒げて咎《とが》め立てした後で堪らない哀傷が彼の心を襲うた。圭一郎等は、住慣れたこの六疊にしばしの感慨をとゞめてゐることはゆるされない。移轉は一刻も猶豫できない切羽詰《せつぱつま》つた状態に置かれてゐた。つい最近のことである。千登世が行きつけの電車通りのお湯が休みなので曾つて行つたことのない菊坂のお湯に行つて隅つこで身體を洗つてゐると直ぐ前に彼女に斜に背を向けた銀杏返《いてふがへし》の後鬢の階下の内儀《かみ》さんにそつくり
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