《あぶらあせ》が流れた。
 數日の後、ルバシュカは無心が度重なるといふので、二人の子供と臨月の妻とを抱へてゐる身の上で馘首《くわくしゆ》になり、圭一郎は後釜へ据ゑられた。
 ……………………
 圭一郎は、崖下の家に移つて來た頃から、今度の雜誌社では給料の外に、長い談話原稿を社長の骨折りで他の大雜誌へ賣つて貰つたり、千登世は裁縫を懸命に稼いだりして、煙草錢くらゐには事缺かないのである。彼は道ゆくにも眼を蚊の眼のやうに細めてバットの甘い匂ひに舌を爛《たゞ》らして贅澤に嗅ぎ乍ら歩くのである。電車に乘らうとして、火のついてゐるバットを捨て兼ね、一臺でも二臺でも電車をおくらして吸ひ切るまでは街上に立ちつくしてゐるのであつたが、急ぎの時など、まだ半分も吸はないのに惜氣もなくアスファルトの上に叩きつけることもあつた。さうした場合、熱き涙を岩石の面にもそゝぎ――と言つた、思慕渇仰に燃えた狂信的な古の修行人の敬虔なる衝動とは異つた吝嗇《りんしよく》な心からではあるけれども、圭一郎は、吸さしのバットの上に熱い涙を、一滴、二滴、はふり落すこともあるのであつた。
 寄越す手紙寄越す手紙で郷里の家に起るごた/\
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