し廻つても無いのである。つい先夜、西片町のとある二階を借りに行つた。夫婦で自炊さして貰ひたいといふと、少ない白髮を茶筅髮《ちやせんがみ》にした紫の被布を着た氣丈な婆さんに顏を蹙《しか》め手を振つて邪慳《じやけん》に斷られての歸途、圭一郎は幾年前の父の言葉をはたと思ひ出し、胸が塞がつて熱い大粒の泪が堰《せ》き切れず湧きあがるのであつた。
片端《かたは》の足を誰にも氣付かれまいと憔悴《やつれ》る思ひで神經を消磨してゐた内儀さんの口惜しさは身を引き裂いても足りなかつた。さては店頭に集る近所の上さん連中をつかまへて、二階へ聞えよがしに、出て行けがしに彼等の惡口をあることないことおほつぴらに言ひ觸らした。鳶職《とびしよく》である人一倍弱氣で臆病な亭主も、一刻も速く立退いて行つて欲しいと泣顏《べそ》を掻いて、彼等にそれを眼顏で愬《うつた》へた。
世間は淺い春にも醉うて上野の山に一家打ち連れて出かける人達をうらめしい思ひで見遣り乍ら、二人は慘めな貸間探しにほつつき歩かねばならなかつた。
二人は、近所の口さがない上さん達の眼を避けるため黎明前に起き出で、前の晩に悉皆《すつかり》荷造りして置いた見窄《みすぼ》らしい持物を一臺の俥《くるま》に積み、夜逃げするやうにこつそりと濃い朝霧に包まれて濕つた裏街を、煎餅屋を三町と距《へだ》たらない同じ森川町の橋下二一九號に移つて行つた。
全く咄嗟《とつさ》の間の引越しだつた。千登世が縫物のことで近付きになつた向う隣りの醫者の未亡人が彼等の窮状を聞き知つて買ひ取つたばかりのその家の目論《もくろん》でゐた改築を沙汰止みにして提供したのだつた。家は三疊と六疊との二た間で、ところ/″\床板が朽ち折れてゐるらしく、凹んだ疊の上を爪立つて歩かねばならぬ程の狐狸《こり》の棲家にも譬《たと》へたい荒屋《あばらや》で、蔦葛《つたかづら》に蔽はれた高い石垣を正面に控へ、屋後は帶のやうな長屋の屋根がうね/\とつらなつてゐた。家とすれ/\に突當りの南側は何十丈といふ絶壁のやうな崖が聳え、北側は僅かに隣家の羽目板と石垣との間を袖を卷いて歩ける程の通路が石段の上の共同門につゞいてゐた。若し共同門の方から火事に攻められれば寸分の逃場はないし、また高い崖が崩れ落ちやうものなら家は微塵に粉碎される。前の日に掃除に來た時二人は屹立《そばだ》つた恐ろしい斷崖を見上げて氣臆《きおくれ》がし、近くの眞砂町の崖崩れに壓し潰された老人夫婦の無慘《むごたら》しい死と思ひ合はせて、心はむやみに暗くなつた。圭一郎は暫時考へた揚句、涙含《なみだぐ》んでたじろぐ千登世を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して、今は物憂く未練のない煎餅屋の二階を棄て去つたのである。
崖崩れに壓死するよりも、火焔に燒かれることよりも、如何なる亂暴な運命の力の爲めの支配よりも圭一郎が新しい住處を怖《お》じ畏れたことは、崖上の椎《しひ》の木立にかこまれてG師の會堂の尖塔が見えることなのだ。
駈落ち當時、圭一郎は毎夜その會堂に呼寄せられて更くるまで千登世との道ならぬ不虔《ふけん》な生活を斷ち切るやうにと、G師から峻烈な説法を喰つた。が、何程|捩込《ねぢこ》んで行つても圭一郎の妄執の醒めさうもないのを看破つたG師の、逃げるものを追ひかけるやうな念は軈《やが》て事切れた。會堂の附近を歩いてゐる時、行く手の向うに墨染の衣《ころも》を着た小柄のG師の端嚴な姿を見つけると、圭一郎はこそ/\逃げかくれた。夜半に眼醒めて言ひやうのない空虚の中に、狐憑《きつねつ》きのやうに髮を蓬々《ぼう/\》と亂した故郷の妻の血走つた怨みがましい顏や、頭部の腫物を切開してY町の病院のベッドの上に横たはつてゐる幼い子供の顏や、倅《せがれ》の不孝にこの一年間にめつきり痩衰へて白髮の殖えたといふ父の顏や、凡て屡※[#二の字点、1−2−22]の妹の便りで知つた古里《ふるさと》の肉親の眼ざしが自分を責めさいなむ時、高い道念にかゞやいた、蒼天の星の如く煌《きら》めくG師の眼光も一緒になつて、自分の心に直入し、迷へる魂の奧底を責め訶《さいな》むのであつた。さうした場合、圭一郎は反撥的にわつ[#「わつ」に傍点]と聲をあげたり、千登世をゆすぶり覺まして何かの話に假託《かこつ》けて苦しみを蹶散《けち》らさうとするやうな卑怯な眞似をした。
ちやうど、引越しの日に雜誌は校了になり、二三日は閑暇《ひま》なからだになつた。
夜、膝を突き合せて二人は引越し蕎麥《そば》を食べた。小さな机を茶餉臺《ちやぶだい》代りにして、好物の葱《ねぎ》の韲物《あへもの》を肴に、サイダーの空壜に買つて來た一合の酒を酌み交はし、心ばかりの祝をした。
「大へん心配やら苦勞をかけました。お疲れでございませう」
と彼女は慌《あわたゞ》しく廻る身の轉變
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