引き取つた後で貰つて行くべき、物品を、貪狼《たんらう》の如き眼をかゞやかして刻一刻と切迫して來る今際《いまは》の餘喘《よぜん》の漂ふ室内の隅々までも見渡してゐた。彼等は目ぼしい物は勿論、ほんの我樂多《がらくた》までかつぱらつて行つたのだが、相場師が壯年の時分に支那や滿洲三界まで持ち歩いて方々の税關の檢査證や異國の旅館のマークの貼りつけてある廢物に等しいこの大型のトランクだけは、流石《さすが》に千登世に殘された。これは養母の在りし日の榮華の記念物である古琴と共に東京へ携へて來たのであつた。
千登世は貧しい三四枚の身のまはりのものを折り疊んで其トランクに納めてゐた。聲を荒げて咎《とが》め立てした後で堪らない哀傷が彼の心を襲うた。圭一郎等は、住慣れたこの六疊にしばしの感慨をとゞめてゐることはゆるされない。移轉は一刻も猶豫できない切羽詰《せつぱつま》つた状態に置かれてゐた。つい最近のことである。千登世が行きつけの電車通りのお湯が休みなので曾つて行つたことのない菊坂のお湯に行つて隅つこで身體を洗つてゐると直ぐ前に彼女に斜に背を向けた銀杏返《いてふがへし》の後鬢の階下の内儀《かみ》さんにそつくりの女が、胡散《うさん》臭くへんに邊に氣を配るやうにして小忙しくタオルを使つてゐた。はつと見るとその人には兩足の指が拇指《おやゆび》を殘して他は一本も無いのである。彼女は思はず戰慄を感じてあつ[#「あつ」に傍点]と立てかけた聲を呑んで、ぢつとその薄氣味惡い畸形の足を凝視《みつ》めてゐた、途端、その女は千登世を振り返つた。とやつぱり階下の内儀さんではないか! 刹那、内儀さんは齒を喰ひ縛り恐ろしい形相《ぎやうさう》をして、魂消《たまげ》て呆氣にとられてゐる彼女にもの[#「もの」に傍点]も言はず飛び退《の》くやうに石鹸の泡も碌々拭かないで上つてしまつた。これまで何回、千登世は内儀さんをお湯に誘つたかしれないが内儀さんは決して應じなかつたし、夏でも始終足袋を穿いて素足を見せないやうにしてゐたので、圭一郎も幾らか思ひ當るふし[#「ふし」に傍点]もあつたのであるが、兎に角、その夜は二人はおち/\睡れなかつた。果して内儀さんは翌日から圭一郎等に一言も口を利かなかつた。千登世が階下へ用達しに下りて行くと棧《さん》も毀《こは》れよとばかり手荒く障子を閉めて家鳴りのするやうな故意の咳拂ひをした。彼等は怯《おび》えて氣を腐らした。内儀さんと千登世とは今日の日まで姉妹もたゞならぬほど睦《むつまじ》くして來たし、近所の人達が千登世のところへ持つて來る針仕事を内儀さんは二階まで持つて上つてくれ、急ぎの仕立がまだ縫ひ上つてない場合は千登世に代つて巧く執成《とりな》してくれ一日に何遍となく梯子段《はしごだん》を昇り降りして八百屋酒屋の取次ぎまでしてくれたり、二人は内儀さんの數々の心づくしを思ふと、心悸《しんき》の亢進を覺えるほど滿ち溢れた感激を持つてゐた矢先だつたので。故郷の家から圭一郎に送つて寄越す千登世には決して見せてはならない音信を彼女には内密に窃《そ》つと圭一郎に手渡す役目を内儀さんは引き受けてくれる等、萬事萬端、痒《かゆ》いところに手の屆くやうにしてくれた思ひ遣りも、その夜を境に掌を返すやうに變つてしまつた。圭一郎の弱り方は並大抵ではなかつた。「ちえつ! 他人の不具な足をじろ/\見るなんて奴があるものか! 女がそんな愼みのないことでどうする!」圭一郎は癇癪を起して眼を聳《そばだ》てて千登世に突掛つた。「わたし惡うございました」と彼女は一度は謝《あやま》りはしたが、眉をぴり/\引吊り唇を顫はして「こんな辛いこつたらない、いつそ死んでしまふ!」とか「そんなにお非難《せめ》になるんなら、たつた今わたしあなたから去つて行きます!」とか、つひぞ反抗の色を見せたことのない千登世も、身に火の燃え付いたやうに狂はしく泣きわめいた。二人は毎日々々、千登世の針仕事の得意を遠去らない範圍の界隈を貸間探しに歩き廻つた。探すとなればあれだけ多い貸間もおいそれとは見當らない。圭一郎は郷里の家の大きな茅葺《かやぶき》屋根の、爐間の三十疊もあるやうなだゝつ廣い百姓家を病的に嫌つて、それを二束三文に賣り拂ひ、近代的のこ瀟洒《ざつぱり》した家に建て替へようと強請《せが》んで、その都度父をどんなに悲しませたかしれない。先々代の家が隆盛の頂にあつた時裏の欅山《けやきやま》を坊主にして普請《ふしん》したこの家の棟上式《むねあげしき》の賑ひは近所の老人達の話柄になつて今も猶ほ傳へられてゐる。「圭一郎もそないな罰當りを言や今に掘立小屋に住ふやうにならうぞ」と父は殆ど泣いて彼の不心得を諫《いさ》め窘《たしな》めた。圭一郎は現在、膝を容るる二疊敷、土鍋一つでらち[#「らち」に傍点]あけよう、その掘立小屋が血眼になつて探
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