崖の下
嘉村礒多
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)煎餅屋《せんべいや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何程|捩込《ねぢこ》んで行つても
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して、
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)くしや/\の中折帽の
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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二月の中旬、圭一郎と千登世とは、それは思ひもそめぬ些細な突發的な出來事から、間借してゐる森川町新坂上の煎餅屋《せんべいや》の二階を、どうしても見棄てねばならぬ羽目に陷つた。が、裏の物干臺の上に枝を張つてゐる隣家の庭の木蓮の堅い蕾は稍《やゝ》色づきかけても、彼等の落着く家とては容易に見つかりさうもなかつた。
圭一郎が遠い西の端のY縣の田舍に妻と未だほんにいたいけな子供を殘して千登世と駈落ちして來てから滿一年半の歳月を、樣々な懊惱《あうのう》を累《かさ》ね、無愧《むき》な卑屈な侮《あなど》らるべき下劣な情念を押包みつゝ、この暗い六疊を臥所《ふしど》として執念深く生活して來たのである。彼はどんなにか自分の假初《かりそめ》の部屋を愛し馴染《なじ》んだことだらう。罅《ひゞ》の入つた斑點に汚れた黄色い壁に向つて、これからの生涯を過去の所爲と罪報とに項低《うなだ》れ乍ら、足に胼胝《たこ》の出來るまで坐り通したら奈何《どう》だと魔の聲にでも決斷の臍《ほぞ》を囁かれるやうな思ひを、圭一郎は日毎に繰返し押詰めて考へさせられた。
圭一郎は先月から牛込の方にある文藝雜誌社に、この頃偶然事から懇意になつた深切な知人の紹介で入社することが出來た。彼の歡喜は譬《たと》へやうもなかつた。あの三多摩壯士あがりの逞《たくま》しく頬骨の張つた、剛慾な酒新聞社の主人に牛馬同樣こき使はれてゐたのに引きかへて、今度はずゐぶん閑散な勿體ないほど暢氣《のんき》な勤めだつたから。しかしそれも束の間、場慣れぬせゐも手傳ふとは言へ、とかく世智に疎《うと》く、愚圖で融通の利かない彼は、忽ち同輩の侮蔑と嘲笑とを感じて肩身の狹いひけめを忍ばねばならぬことも所詮は致し方のない悉《みな》わが拙《つたな》い身から出た錆であつた。圭一郎は世の人々の同情にすがつて手を差伸べて日々の糧を求める乞丐《こじき》のやうに、毎日々々、あちこちの知名の文士を訪ねて膝を地に折つて談話を哀願した。が智慧の足りなさから執拗に迫つて嫌はれてすげなく拒絶されることが多かつた。時には玄關番にうるさがられて脅《おど》し文句を浴せられたりした。彼はひたすらに自分を鞭うち勵ましたが、日蔭者の身の、落魄の身の僻《ひが》みから、夕暮が迫つて來ると味氣ない心持になつて、思ひ惱んだ眼ざしを古ぼけて色の褪せたくしや/\の中折帽の廂《ひさし》にかくし、齒のすり減つた日和《ひより》の足を曳擦つて、そして、草の褥《しとね》に憩ふ旅人の遣瀬ない氣持を感じながら、千登世を隱蔽してあるこの窖《あなぐら》に似た屋根裏を指して歸つて來るのであつた。――彼女との結合の絲が、煩はしい束縛から、闇地を曳きずる太い鐵鎖とも、今はなつてゐるのではないかしら? 自分には分らない。彼は沈思し佇立《たちどま》つて荒い溜息を吐くのであつた。精一杯の力を出し生活に血みどろになりながらも、一度自分に立返ると荒寥たる思ひに閉されがちだ。何處からともなく吹きまくつて來る一陣の呵責《かしやく》の暴風に胴震ひを覺えるのも瞬間、自らの折檻《せつかん》につゞくものは穢惡《あいあく》な凡情に走《は》せ使はれて安時ない無明の長夜だ。自分はこの世に生れて來たことを、哀しい生存を、狂亂所爲多き斯《か》く在ることの、否定にも肯定にも、脱落を防ぐべき楔《くさび》の打ちこみどころを知らない。圭一郎は又しても、病み疲れた獸のやうな熱い息吹を吐き、鈍い目蓋を開いて光の消えた瞳を据ゑ、今更のやうに邊《あたり》を四顧するのであつた。……
「何にを今から、そんなに騷ぐんだい! まだ家も見つかりはしないのに!」
或る日社から早目に歸つて來た圭一郎の苛々《いら/\》した尖つた聲に、千登世はひとたまりもなく竦《すく》み上つて、
「見つかり次第、何時でも引き越せるやうにと思つて……」と微かな低聲《こごゑ》で怖々言つて、蒼ざめた瓜實顏をあげて哀願するやうな眼付を彼に向け、そして片付けてゐたトランクの蓋をぱたり[#「ぱたり」に傍点]と蔽うた。
其トランクは、彼女の養父の、今は亡くなつた相場師の彼女へ遺された唯一の形見だつた。相場師の臨終の枕元に集《つど》うた甥や姪や縁者の人たちは、相場師が息を
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