に思ひを唆《そゝ》られてか潤んだ聲で言つた。
「いや、貴女こそ……」
と圭一郎は感傷的になつて優しく口の中で呟いた。千登世を慈《いつく》しんでくれてゐる大屋の醫者の未亡人への忘れてはならぬ感謝と同時に、千登世に向つても心の中で手を支へ、項《うなじ》を垂れ、そして寢褥《ねどこ》に入つた。誰に遠慮氣兼ねもない心安さで手足を思ふさま伸ばした。壁は落ち、襖《ふすま》は破れ、寒い透間の風はしん/\と骨を刺すやうに肌身を襲ふにしても、潤んだ銀色の月の光は玻璃《ガラス》窓を洩れて生を誘ふがに峽谷の底にあるやうな廢屋《はいをく》の赤茶けた疊に降りた。四邊は※[#「闃」の「目」に代えて「自」、164−下−17]《しん》と聲をひそめ、犬の遠吠えすら聞えない。ポトリ/\とバケツに落ちる栓のゆるんだ水道の水音に誘はれて、彼は郷里の家の裏山から引いた筧《かけひ》の水を懷しく思ひ出した。圭一郎はいきなり蒲團を辷り出て机に凭掛《よりかゝ》り、父に宛てて一軒の家を持つた悦びを誇りかに葉書にしたゝめたが、直ぐ發作的に破いてしまつた。
「あなた、今朝は、ゆつくりおやすみなさいね」
 明る朝、曉方早く眼ざめた二人は、どうにかして暗處をこゝまで辿りついて來た互ひの胸の中を寢物語りにしてゐたが、間もなく千登世は斯う言つて寢床を離れた。すこし熱の出た圭一郎は組み合せた兩掌で顏を蔽ひ、鈍痛を伴つて冷える後頭部の皿を枕に押しつけてゐると、突如と崖上の會堂から磬石《けいせき》を叩く音が繁く響いて來た。圭一郎はあわてて拇指《おやゆび》で耳孔を塞いだ。が、駄目だ。G師につゞく百人近い學舍に寄宿してゐる帝大生の勤經《ごんぎやう》の聲は押し拂はうとても、鎭まつた朝の空氣をどよもして手に取るやうに意地惡く聞えて來る。彼は忌々《いま/\》しさに舌打ちし、自棄《やけ》くそな捨鉢の氣持で空嘯《そらうそぶ》くやうにわざと口笛で拍子を合はせ、足で音頭をとつてゐた。が、何時しか眼を瞑《つぶ》つてしまつた。「愛欲之中《アイヨクシチユウ》。……窈窈冥冥《ヤウヤウミヤウミヤウ》。別離久長《ベチリクチヤウ》」嘗《か》つて學舍でG師に教はつて切れ/″\に諧《そら》んじてゐる經文が聞えると、心の騷擾《さうぜう》は彌増《いやま》した。「顛倒上下《テンダウジヤウゲ》。……迭相顧戀《テチソウコレン》。窮日卒歳《グニチソチサイ》……愚惑所覆《グワクシヨブ》」――暫らくすると、圭一郎は被衾《よぎ》の襟に顏を埋め兩方の拳を顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にあて、お勝手で朝餉《あさげ》の支度をしてゐる千登世に聞えぬやう聲を噛み緊めてしくり/\哭《な》いてゐた。彼は奮然として起き直り、薄い敷蒲團の上にかしこまつて兩手を膝の上に揃え、なにがなし負けまいと下腹に力を罩《こ》めて反衝《はねか》へすやうな身構へをした。
 さうした毎朝が、火の鞭を打ちつけられるやうな毎朝が、來る日も來る日もつゞいた。が、圭一郎もだん/\それに馴れて横着になつては行つた。
 G師は、ともかく一應別居して二人ともG師の信念を徹底的に聽き、その上で、うはずつた末梢的な興奮からでなしに、眞に即《つ》く縁のものなら即き、離る縁のものなら[#「ものなら」は底本では「ものなる」と誤記]離るべしといふのであつたが、しかし、長く尾を引くに違ひない後に殘る悔いを恐れる餘裕よりも、二人の一日の生活は迫りに迫つてゐたのである。父の預金帳から盜んで來た金の盡きる日を眼近に控えて、溺れる者の實に一本の藁を掴む氣持で、圭一郎は一人の※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]縁《つて》もない廣い都會を職業を探して歩いた。故郷に援助を求めることも男のいつぱしで出來ないのだ。彼は一切の矜《ほこ》りを棄ててゐた。社會局の同潤會へ泣きついて本所横網の燒跡に建てられた怪しげなバラックの印刷所に見習職工の口を貰つたが、三日の後には解雇された。彼は氣を取り直して軒先にぶら下つてゐる「小僧入用」のボール紙にも、心引かれる思ひで朝から晩まで街から街を歩いた。上野の市設職業紹介所には降る日も缺かさず通つて行つて、そして、迫り來る饑《ひも》じさにグウ/\鳴る腹の蟲を耐へて澁面つくつた若者や、腰掛の上に仰向けになつてゐる眼窩《がんくわ》の落窪んだ骸骨のやうなよぼ/\の老人や、腕組みして仔細らしく考へ込んでゐる凋《しぼ》んだ青瓢箪《あをべうたん》のやうな小僧や、さうした人達の中に加つて彼は控所のベンチに身を憩《やす》ませた。みんなが皆な、大きな聲一つ出せないほど窶《やつ》れて干乾びてゐる。と中に、セルの袴を穿いて俺は失業者ではないぞと言はぬ顏に威張り散らし、係員に横柄な口を利く角帽の學生を見たりすると、初めの間はその學生同樣に袴など穿いて方々の職業紹介所を覗いてゐた時のケチ臭い自分の姿を
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